「カナンが起きた!?」
その吉報を聞いた時、ペトラは矢も盾もたまらず駆け出したくなった。
しかしほぼ同時に敵が前線を迂回してきたという報告が入り、その二つの報告の間で右往左往することとなった。
そしてさらに、二人が何の躊躇いもなく前線に向かったという追加報告を受けて、短い脚で後を追う羽目になった。
ペトラが難民たちにもみくちゃにされながら外延部まで出てきた時、すでに彼らは、爛々と輝く赤い眼球の群れに向かって、静かに歩を進めていた。
「カナン! イスラ!」
彼女が呼び止めると、二人は揃って振り返った。ペトラは息を切らせながらカナンの外套を掴んだ。
「あ、あんた……何しようっていうんだい!?」
傷は大丈夫なのか。勝算はあるのか。色々聞きたいことはあったが、ろくに頭が回らなかった。カナンもまた、ペトラの表情を見てその意図を悟ったようだった。一瞬、眉根を寄せたが、謝罪の言葉は出なかった。代わりに少しだけ口元を緩めた。
「何とかしてきます」
言葉そのものは、どこまでも不確実なものだった。だが、カナンの頭の中に何等かの解決策が浮かび上がっていることは表情から読み取れた。伊達にエデンまで付き合ってはいない。彼女が無策な時とそうでない時の違いくらいは分かる。
しかし、カナンはいつも綱渡りを続けてきた。一歩間違えれば無残に失敗するような類のものばかりだった。今回もそうであることは、尋ねるまでもなく分かる。現に敵は刻一刻と迫りつつある。長々と話し込んでいる余裕は無い。
ペトラはイスラの顔を見やった。厳しい印象を与える金色の瞳には、一切の不安が浮かんでいなかった。イスラは無言のまま小さく頷いた。
「何とか……出来るんだね?」
カナンは深く頷き、そしていつもの歯切れのよい調子で「はいっ!」と答えた。
くるりと前を向き、二人はピンと背筋を伸ばしたまま、各々の武器を正面に突き出した。権杖と
何故であろうか。ペトラは胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
二人の今の格好は、とても身綺麗とは言えない。戦塵や血に汚れ、隠し切れない疲労が見て取れる。武器のあちこちにも使い込んだ故の損傷や年季が見て取れた。前方には二人で相手どるには多すぎる数の敵が並び、武器を振り翳している。
それにも関わらず、二人の姿は完全なものに思えた。この世には一つだけでは完全足り得ないものがいくつもある。宝石の嵌められていない指輪は誰からも見向きもされない。鞘の無い剣は戦場まで持って行かれることはない。同様に、今の二人も、どちらか片方だけでは成立し得ないのだろう。
この光景は、今この瞬間だけのものではない。
今まで彼らが潜り抜けてきた戦いがすでにあり、そしてもし世界が続くならば、二人はこのような姿で戦い続けていくに違いない。ペトラには自然とそう思えた。その様が容易に瞼の裏に浮かんだ。
十年、二十年。あるいは自分や彼らが死んだ後、百年経ち二百年経ち、あるいは千年経っても、この後ろ姿は世代を超えて伝わり続けるのではないか。
(嗚呼、なんて光景だい……)
ラヴェンナでカナンが論争を繰り広げた時、彼女は確かに歴史という演劇の主役を張っていた。その時と同じ感動がペトラの胸を締め付けていた。所詮自分は脇役か小道具係りにしかなれないが、それで良いと思えた。この光景をすぐ間近で見られるのならば、この上ない役得だと己に言い聞かせた。
だが、一緒についていくことが出来ない悔しさも、やはり拭い難いのだった。
だから、二人が敵に向かって駆けだす直前、ペトラは叫ばずにはいられなかった。
「帰ってくるんだよ、絶対!!」
二人は示し合わせたかのようにこくりと頷いた。
◇◇◇
ペトラの視線を背中に感じながら、二人は徐々に足を速めていった。初めは歩くように、そこから次第に加速していく。
「言われるまでも無い。だろ?」
イスラは明星へと意識を注ぎ、彼女から与えられた蒼炎を刃の部分のみに薄く被せた。こうしておけば最低限の力で夜魔を斬り裂くことが出来る。もたもたしている余裕は無いが、何が起こるか分からない以上、天火の消耗は少しでも抑えなければならない。
「ええ、もちろん」
カナンは細剣を抜き、片手で杖をくるりと回転させた。どこにも痛みやしこりは無い。まるで快眠したかのように頭も身体も冴えわたっている。
「お前が何を考えてるかは分からないけど、とりあえずあそこまで連れて行けば良いんだな?」
イスラがセリオンの方に剣を向けると、カナンは「お願いします」と返した。
しかし、そのためにはまず、眼前の夜魔を凌がなければならない。突破をさせるわけにもいかない。今の難民団本隊には戦力はほとんど残っていない。通常型の個体を一体通しただけで、何人が殺されるか分かったものではない。
いつしか二人の速度は、完全に駆け足のそれへと変わっていた。
そしてそのままの速度で、前線を抜けてきた夜魔の集団に突っ込んでいった。
一体、どちらが先に咆哮を上げただろうか。戦場に出られないもどかしさを溜め込んでいたイスラは、無論叫ばずにはいられなかった。だが、もしかしたらカナンの方が先に声を上げていたかもしれない。
二人の声は押し寄せる敵の騒音に呑み込まれ、搔き消されてしまった。しかし二人の操る武器の軌跡は、後方の難民たちにさえはっきりと分かるほどに明瞭でかつ鮮やかだった。
イスラは両手にそれぞれ
そんな二人を包囲すべく、左右と下方より敵が迫ってくるが、そちらについてはカナンが対処した。イスラの突撃によって法術を唱えるだけのゆとりが生じている。敵による完全な包囲が完成する前に、カナンはその術の詠唱を終えていた。
「我が蒼炎よ、この天命を糧となし、至高の翼となりて御座に
尽きること無き栄光の元、ひるがえれ、
流石に、イスラが驚いたように一瞬振り返った。彼にとっても忘れ難い印象を持った術だった。
熾天使の羽衣。術者の持てる天火を完全に開放することで、攻防一体の炎翼を織り上げる秘術だ。
カナンの背中から、六枚の炎の翼が伸びる。大火事のような統御されていない炎が、ペヌエル平原を焦がすかと思われるほどに伸長したが、それは見る間に短く収縮していった。そして、翼の一本々々が、幅広の大剣の刀身のような形へと収斂した。
いつもなら無数の眼と唇が浮かび、騒々しく解読不能の聖歌を歌い上げるのだが、それも無かった。ただ、超高純度に圧縮された天火が、開放の時を待つ唸り声をあげている。
「……やっぱり、出来た!」
「やっぱり、って何だよ!?」
グレゴリの胴を断ち斬りつつイスラが問う。カナンはそれに答える代わりに、軽く腕を払った。
同時に、彼女の後背から伸びている炎の剣に変化が生じる。剣の内一本が細かく枝分かれして、その先端部に宿った炎が弾丸となって解き放たれた。
あるいは、また別の剣が高速で回転し、円状の残光が戦輪となって周囲の夜魔たちを斬り裂く。
いずれも、それぞれ異なった法術によって発現する攻撃だ。
「
法術の間合いを破って踏み込んできたアルマロスに、カナンが正面から権杖を叩きつける。
「それで!?」
混血児を結び付けた
「だから、一度この術を使ってしまったら、そこから全ての法術に派生出来るんじゃないかな……って!」
炎を纏わせた細剣を、グレゴリの頭めがけて投擲する。突き立ったそれをイスラが引き抜きつつ「出来るのかよ!?」と怒鳴った。
「出来ましたよ、見ての通り!」
ひょいと投げられた剣を、カナンは空中にある内に掴み取った。
「じゃあ俺、要らないんじゃないか?」
カナンの隙を突いて忍び寄っていた夜魔を斬り払い、イスラはニヤリと笑った。「そんなわけないでしょ」と、カナンは剣の柄で彼の背中を小突いた。
「天火の量は有限なんですよ。大変なのはこの先なんだから、ちょっとでも私に楽をさせてもらわないと」
「成程。じゃあ、
他の夜魔を文字通り蹴散らしながら、二体のネフィリムが突っ込んでくるのが見えた。逆に、その背後は敵の流れが途切れている。彼らを倒しさえすれば、前線への道が開ける。
「片方は私が。イスラはもう片方を」
「ん」
カナンの炎翼が前面に回り、その全てが枝状に分岐した。先端部から放たれた炎の散弾が、前を進んでいたネフィリムを穴だらけにして抹殺する。しかし灰の帳を破って突進してきた二体目のネフィリムは、すでにその右腕を大剣状に変化させていた。
だが、それが振り上げられると同時に、イスラは
巨人が完全に消滅するよりも先に、イスラは待っていたカナンの元へと着地していた。
難民団へ向かっていた夜魔はあらかた片付いた。だが、二人ともまだまだ力が有り余っているように感じていた。
しかし前線の将兵たちは、そうはいかないだろう。
「……急ぐぞ」
「はい」
切り抜けた戦場など一切振り返らず、二人は激戦の渦中へ向けて走り出した。