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【第二二七節/夜明けへの進軍 二】

 ペヌエル平原に陣を張った救征軍は、押し寄せる夜魔の津波の前で何とか戦線を維持していた。


 指揮を預かったゴドフロア・ロタールは、最前線に出たい気持ちを必死にこらえて配下の兵士たちを叱咤していた。指揮官とは言え、この状況下で出来ることなど限られている。


 図式はあまりに単純だ。救征軍の中核である難民たちに戦火が及ばないよう、軍はその前面に展開して敵の攻撃を受け止める。それ以外に何も無い。


 敗北が明らかな戦いだ。あまりに膨大な敵に対し、救征軍側の戦力は総勢で千二百人程度。開戦時点での戦力内訳は、本隊であるウルバヌス兵四百余名、操蛇族三百名、そしてアブネル麾下の闇渡り四百名。このうち操蛇族に関しては、現在動けるのが二百名程度で、残り百名はラヴェンナ領内からの強行軍で疲れ切っている。


例えるならこれは、川の流れを紙の壁で遮ろうとする試みと言えるだろう。いずれすり潰されるか、突破されるかのどちらかしかない。ペヌエル平原には、他の煌都が持っているような城壁も無ければ大規模な防衛兵器も無いのだ。


 そんな状況では大した策など打ち出せようはずもない。総指揮官も旗頭以上の意味を持ちえない。純粋な騎士としての人格を持っているゴドフロアとしては、とかく歯がゆい戦いだった。


 だからこそ、ただひたすらに立っていなければならない。落ち着いていなければならない。自分が軽挙妄動を起こせば、その瞬間に救征軍は崩壊する。


 それは辛い決意だったが、ゴドフロアは一人ではなかった。


 前線に出られないゴドフロアに代わり、闇渡りの兵士四百名を預かったアブネルは大いに働いた。


 この四百名は、闇渡りとして過酷な生活を送ってきただけに心身ともに十分鍛え上げられている。わけても、アブネルの周囲を固める三十名弱の最精鋭たちは、剽悍極まりないツァラハト最強格のつわものである。各々が夜闇の世界を一人で生き抜く力を持ち、さらに抜きん出た者の中には、その一芸でもってサウルやイスラを上回る者もいた。


 彼らが演じて見せる嵐の如き戦いぶりは、それだけで挫けそうになる軍の士気を支えた。伐剣とは名ばかりの大太刀を振り回してグレゴリを両断する剛剣使いや、逆に細く薄い剣で何体ものアルマロスを征する曲者、強弓を引いて一撃三殺を敢行する射手、そういった連中がアブネルの指揮の元、奔放に己の美芸を演じて見せる。


 彼らはその技術を人前で披露するだけで、優に一財産が築けたであろう。もし煌都の名士の中に理解のある者がいたならば、大金を積んででも手元に置きたがったに違いない。あるいは、強靭無比な脅威として都外巡察隊からの追跡を受ける身となっていたかもしれない。


 闇渡りのアブネルは、そうした武芸の達人たちに比べると圧倒的に地味な存在だった。


 彼自身の腕前は、本人が謙遜するほど低くは無い。あのサウルが弱者を側近として起用し続けることなどあり得ない。大型の伐剣で悠々と夜魔どもの頭蓋を砕く様を見れば、誰も彼を見くびったりはしないだろう。


 それでも、彼は誰よりも剣の扱いが上手いわけではないのだ。最前線で戦い続けていれば、当然のことではあるが傷が増えていく。ニヌアの剣匠バルクによってつけられた頭の傷の他に、新しい出血がいくつもその顔を彩っていた。通り過ぎていく夜魔の爪や剣、槍が、身体の肉を削ぎ取っていく。



「突撃ッ!!」



 今しがた己の肩を裂いた敵を押しのけ、アブネルは灰を纏った伐剣を前方へと突き出して駆け出した。


 その後ろに、三十名の猛者が追い縋る。誰よりも優れているわけではない、しかし勇猛でしぶとい戦士を追いかけて。


 アブネルは、何も無策に敵中に突っ込んだのではない。彼の狙い目は、最前線からやや後方に存在する、夜魔の軍勢の過疎地点だ。


 過疎とは言っても無論、数は敵の方が圧倒的に多い。だが、敵には陣を構えて迎撃するという発想がない。指揮統率もされないまま、ひたすら前方に向けてばらばらに突撃するだけだ。


 しかし、夜魔には個体差がある。そもそも種類によって足の速さにも差が生じてくる。それが軍勢の中に戦力の不均衡を一時的ではあるが出現させる。アブネルは、その瞬間的な不均衡……弱点を突いた突撃を繰り返していた。これで四度目になる。


 目的はその弱点部の粉砕、ではない。いくら猛者の集まりとは言え、三十名で敵を殲滅することは出来ない。


 しかし弱点部への攻撃によって一時的に分断状態を作り出すことが出来たなら、ゴドフロアの指揮する本隊と、後詰を任せたサイモンの部隊によって突出した敵の包囲殲滅が可能となるのだ。少なくとも一時的に負担を軽くすることは出来る。


 無論、突撃する部隊は大変な危険に晒されることとなる。普通ならば磨り潰されて消滅するところ、個々人のずば抜けた技量と生存能力を頼って、無理やりに実行しているのだ。もしアブネルが後退の見極めをしくじったら、その瞬間に全滅が確定する。


 だが、誰も文句を言わなかった。アブネルに対する信頼は一因としてあるが、彼の元に集った三十名は皆、どこかで死を覚悟した連中ばかりである。同時に己の技量に対する絶対的な自信があり、戦いに対する渇望があった。そんな自分たちを「度し難い」「死んでおくべきだった」と思いつつも、戦うことが楽しくて仕方が無いのである。


 いつしか戦いに酔った誰かが歌を歌い始めた。闇渡りの間に遥か昔から伝わる、暴力と生存本能を褒め称える歌である。その厚い靴の下に夜魔の灰を踏みしめ、鈍く輝く伐剣を振るっては討ち取った敵の数を互いに誇り合った。この必死の闘争は、生まれつき過酷な運命に翻弄されることを決定づけられた戦士たちにとって、あたかも準備に準備を重ねた演劇の、その本番のように思われたのだ。




◇◇◇




 前線の部隊は、まさに人事を尽くして事に当たっていた。しかし絶対的な彼我の戦力差故にどうしても覆い切れない箇所が出てくる。ゴドフロアにもアブネルにも、より広い範囲にまで軍を広げる余地は無かった。


 やがて、軍主力の守っていた場所を無視して、一部の敵が難民たちに向かってその刃を向けようとしていた。

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