カナンが目を開いた場所は、数本の支柱に幕を張っただけの粗末な天幕だった。風を受けてあちこちがはためき、軋み、捲れ上がった布の向こうに蹲って嘆く大勢の人々が見えた。
遠くから戦いの音が聞こえる。しかし勇猛に戦う戦士たちの声に勝って、諸々の敵が怒濤となって押し寄せるその迫力の方が、圧倒的に勝っていた。
最後にカナンは、自分の胸元に意識を向けた。オーディスの最後の抵抗故か、心臓を貫くことこそなかったものの、そこに繋がる重要な血管や臓器をいくつも傷つけられた。いくら蒼炎の継火手と言えども致命傷であったはずだが、それらは全て、何事も無かったかのように癒されている。
頭に入ってくる情報や、先ほどエマヌエルと交わした会話から、カナンは今の状況を即座に理解した。
そして、この救征軍で誰よりも戦士として優れているイスラが、こうして自分の側にいてくれたことが、何よりも意外でかつ嬉しかった。
「待っていてくれたんですね」
カナンが囁くと、イスラはその頭を優しく叩きながら「ああ」と答えた。「行かなくて良かったんですか?」と聞くと「行きたかったよ」と返ってきた。
「でも……」
イスラは身体を離して、カナンの顔に手を掛けた。汗、血、灰、その他色々なものを潜り抜けてくすみ、ごわごわに固まってしまった金色の前髪をかき分ける。その下にある蒼玉のような瞳を見つめて言った。
「追いつくだの、追いかけるだのはもう御免だ。
俺たちは今までずっとそうだった。けど、いい加減そういうのにうんざりしたんだよ。
だから……」
「……うん。私もそう思います」
成すべきことを成さねばならない。
イスラは「何をしたら良い?」とは聞かなかった。目覚めたカナンの瞳の中には、目的を見出した者しか持ちえない確信が宿っている。
そして事実カナンは、自分が今、何をしなければならないかをちゃんと悟っていた。
「……あのぉ」
しかし間抜けなことに、カナンはイスラの後ろに控えていたコレットの存在に気付いていなかった。居心地の悪さに耐えかねた彼女がおずおずと顔を見せた。
「カナン……様? 大丈夫なのですか?」
「はい。コレットさん……ずっと天火を送ってくれていたんですね」
カナンは自分の中に、自分以外の天火がいくつも交じり合っていることに気付いていた。
穏やかに、だが力強く熱を発するエマヌエルの天火。
現れたと思ったらすぐに消え、そしてまた存在を主張するかのように瞬くシオンの天火。
ここには居ないが、淡々と同じ感覚で燃え続けるヒルデの天火。
そしてまだまだ未熟だが、確かにそこにあると感じられるコレットの天火。
それら全ての炎が、弱り消えかけていた蒼い炎を支えて、今までに無い新しい力へと進化していた。
「ありがとう」
カナンは目の前のコレットに頭を下げた。それは同時に、自分に関わってくれた全ての人たちに向けての敬礼だった。
コレットは胸を突かれたかのように絶句した。唇を噛み、目を潤ませる。
「カナン様、わたしは何もしていません。いえ……何も出来なかった。私なんかの力じゃ、何も……!」
継火手見習いとは言え、コレットの力は微々たるものだ。そして今彼女が、そして救征軍の全ての人々が直面している状況は、到底人の力で解決出来るようなものとは思えない。
ましてやカナンが死に直面するほどの傷を負ったと聞かされた時など、絶望で目の前が真っ暗になった。ペヌエル平原の彼方にいる、あの巨大な
どうすれば良いのだろう。
自分の力では手に余るこの状況で、このちっぽけな手と力とで出来ることは何だ?
いくら考えたところで答えなど出ない。自分の無力さが、全ての可能性に蓋をする。
「出来ることと言えば、カナン様に縋りついて少しでも天火を分けることくらいでした」
結局、人の力を頼ることしか出来ない。それも、深く傷つき眠りの底へと落ちている人へと。そんな自分が情けなくて仕方が無かった。
だが、そうして俯くコレットに返ってきたのは、カナンの苦笑だった。すぐに「すみません」と付け加えるが、やはりクスクスと忍び笑いが漏れてしまう。
「無力なのは私も同じです。私はコレットさんやみんなが思っているほど、力のある人間ではありません。
でも、何も出来ないとも思わない。私には確かに力があります。望みに手が届くほどの力かどうかは分からないけれど、でも、とりあえず何かをしようと思える力が。
そして、その力を一番使いたいと思うのは、こうして誰かに頼られる時なんです」
ね? とカナンは、イスラに向けて首を傾げた。イスラはぶすりとしたまま「知ってる」と言った。
カナンは立ち上がった。ふらつくかと思ったが、両脚、そして全身に力が漲っている。エデンの樹との戦闘で熾天使級法術を使ってしまったため、一度は底をついた天火が、今は半分ほどにまで回復していた。
そして手元にある天火たちと、樹との戦いで得た新たな着想があれば、この半分の天火は全回復以上の力を発揮出来ると確信した。
「行けるな? カナン」
「はい。あ、でもちょっと着替えだけさせてください。すぐに済みますので」
「ん」
二人はさも買い物にでも出かけるような気楽さで動き出した。呆気に取られていたコレットは「ど、どこに行くんですか!?」と慌てて尋ねた。
「イスラさん!?」
「あん?」
「い、いや、あん? って……戦いに行くんですよね!?」
「当たり前だろ」
「でも、あんなにたくさんの敵がいるんですよ! いくらお二人でも勝ち目は……!」
「そりゃそうだ。あれを全部ってのはさすがにキツい」
「じゃあどうするんですか!?」
「知らん」
「えぇ!?」
「どうすりゃ良いかは全部あいつが知ってる。なあ?」
イスラが顎で指した先では、カナンが乱雑に服を脱ぎ捨てていた。
「はい、考えてますよ」
エマヌエルのダルマティカとブラウスは燈台の中に棄ててきてしまったし、肌着は自分の血糊でどろどろに汚れている。黒いズボンはそのままに、裸の上半身に用意されていた替えの肌着を着て白いシャツのボタンを留め、最後に上着を羽織ろうとする。
そこで、ハッと手を止めた。
「これ……」
カナンは荷袋の底から一着のチョッキを取り出した。鮮やかな若葉色……だったのは、もうずいぶんと前の話だ。しっかりと洗ってはいたが、旅の中で何度となく酷使してしまったうえ、パルミラからウルバヌスに向かう途中の一騒動でイスラによって着潰されてしまったはずだった。
現にイスラが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。どうやら相当に屈辱であったらしい。
確かに生地は伸びてしまっているが、いくつか開いた穴には可愛く切られた当て布が縫い留められている。
羽織ってみて、ボタンを留めると、どんなに分厚い鎧でも決して得られないような安心感があった。
「カナン様、これを!」
コレットが権杖と細剣を差し出す。どちらも正真正銘、カナン本人のものだった。あの混乱のために半ば諦めていたが、どうやら抜け目のない誰かが拾ってくれていたらしい。サイモンさんかな、とカナンは目星をつけた。
「済んだか?」
「はい」
イスラの方は、当に準備が出来ている。救征軍の紋章が縫い込まれた外套は、カナンの手当てをした時に潰してしまったが、特段の拘りは無かったため適当に入手した古い外套を纏っていた。
腰には
「正直、とっとと戦いたくてどうにかなりそうだったんだ。
行こう、カナン。皆戦ってる」
こくりと頷くカナンと、心配そうに二人を見るコレットにそれぞれ一瞥を向けてから、イスラは天幕の布を持ち上げた。