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【第二二六節/君は愛されるため生まれた】

「残念だけど、再会を言祝いでいる時間は無いわ。

 カナン。状況が逼迫しているのは、貴女にも分かるわね?」


「……はい」


 エデンの樹は言っていた。間もなく真の天使が到着し、彼らの大願が成就すると。


 彼らの言うところの「真の天使」がベイベルだとすれば、彼女もまたエデンへ辿り着いたことになる。


 こうしてエマヌエルの残光と対面していることを鑑みると、いよいよ役者が揃った感さえ覚える。旧時代の賢者たちがどの程度まで計算に入れていたのかは分からないが、自分たちのような特異な天火を持った者がここに集められたことは、単に偶然という言葉だけでは片づけられないように思えた。


「剣に残してきた天火が教えてくれるの。オーディスの身体を奪ったあの人たちは、目的を達するまであと一歩という所まで来ている。彼らは決して私たちを救いはしない。むしろ……彼らの目的を考えたら、用済みになった私たち継火手や、今の世界の人々は邪魔にしかならないわ」


「彼らは言っていました。導くに足る人類を創造する……その世界に私たちの居場所は残さない、と……」


 エマヌエルは静かに頷いた。


「彼らがどんな辛い目に遭ってきたか、私には想像することも出来ないわ。

 でも、カナン。貴女はそれで納得出来る?」


 カナンは首を横に振った。いくらか冷静さを取り戻したとはいえ、依然として彼女の中には、造物主たちに対する怒りが燃え盛っている。そんな連中の身勝手な願いを、易々と叶えてやる義理など無い。


 だが、彼女の足枷となっているのは、それとはまた別の理由だ。


「……戦うことは怖くありません。でも……」



 ――恥ずかしいんです。



 カナンの負い目は、言葉にならなかった。だが、エマヌエルには彼女の言わんとしていることが分かっていたし、それが相当に根深い問題であることにも気づいていた。


「貴女の自分嫌いも、筋金入りね」


 そう言われてしまうと、カナンも苦笑するほか無かった。



「頭では分かってるんです……イスラは私を疎んだり、見棄てたりしない。きっと最後まで一緒に戦ってくれるって。


 だけど、そんなあの人の隣にいることに、私自身が耐えられない。こんなにも信じてくれた人を裏切って、蔑ろにして……その癖、まだ手放したくない。甘えたい。私の方から言わなくても、あの人は私に追い付いてきて、抱き締めてくれるって……そんな風に都合よく思ってる自分がいる」



 酷い女ですね。と、カナンは自嘲した。


 だが、エマヌエルはカナンを嘲笑おうとはしなかったし、ましてや怒りさえしなかった。自分と良く似ている少女だと思えばこそ、その胸中にどんな想いを抱いているか見通せるのだ。


 人間は、自分にとって都合の悪い物を意識的に見ないようにする生き物だ。そういう心の働きが生得的に備わっているし、そうでなければ毎日の失敗や憂鬱に押し潰されてしまう。何かをあえて見ないようにすることは、本能があらかじめ与えてくれた智慧に他ならない。


 そしてだからこそ、他者のことを鑑みずに狡く立ち回ることも出来るのだ。人は日々、そうして他者を出し抜きながら生きている。


 しかし、当然例外も存在する。自分自身のことをより冷静に、俯瞰的に見ることが出来てしまう人間たちだ。そういう者たちは得てして言葉を扱うことに長けている。だから、自分の中にある混沌とした感情を言葉として具体化させてしまうのだ。


 あたかも優れた医者が持病の診断を下してしまうかの如く、己の心の汚れた箇所を探り当ててしまう。自分の抱えた症状がはっきりと読めてしまうからこそ、どんな欺瞞も通用しない。



 つまるところ、イスラが度々表現してきた通り「馬鹿真面目」さこそがカナンの根幹の一つなのだ。



 自分の心の中を見通す目があり、その目が捉えた心の汚さを許せない真面目さがある。なまじ言語能力が高いばかりに、綺麗な部分も汚い部分も明瞭に言葉に変換出来てしまう。


 気にしなければ良い。


 しかし気にしてしまう。


 何故ならそれが、カナンという少女なのだから。



「でも、ずっとそのままじゃいられないわよ」



 そうなのだ。


 いつまでも自分一人の都合で立ち止まっているわけにはいかない。これは誰のせいにも出来ないし、誰かに代わりに背負ってもらうことも出来ない問題だ。



 カナンが、この旅における最大の課題として乗り越えなければならない事柄なのだ。



「……分かってる。分かってるつもりです。でも、私……どうしたら良いんでしょう?」



 エマヌエルは椅子から立ち上がり、カナンの真正面に立った。光によって縁取られた輪郭が淡く揺れている。その輝きが、彼女がすでに彼岸の存在であることを如実に語っていた。


 だが、自分の両肩に置かれた手には、確かに人としての温かさが残っているように、カナンには思えた。




「愛される勇気を持ちなさい。


 貴女は愛されるために生まれてきたの。


 貴女は、誰かに愛されるに足る人間なのよ。


 そして現に、貴女の見つけた守火手から愛されている。


 貴女を形作っている一つ一つが、その人にとって意味のあるもの。


 たとえ貴女がどれだけ自分を疎んで、無価値だと思い込んだとしても、その人からはそうは見えない。


 その人が見出してくれた、自分の中の輝きを信じなさい。


 誰にでも胸を張って、自分は愛されるに足る人間なのだと声をあげなさい。


 愛される幸せを裏切ってはならない。


 自分を見出してくれたその目を信じること。


 それが、今の貴女がするべきことよ」




「愛される、勇気……」




 それはカナンにとって、今まで想像したことも無い地平だった。


 ずっと誰かを愛したいと思って生きてきた。


 ユディトは意識せずにそれが出来る。だからこそ多くの絢爛な人々の中にあって、抜きん出て光を放っている。ギデオンのことで一喜一憂したり、鏡の前で新しい装飾品を試したり、遠くから彼を眺めては溜息をついている姉の姿が、カナンにはいつも眩しく見えた。彼女の周りだけ、いつも天火とは違う種類の輝きが満たしているかのようだった。


 愛されることなど、カナンにとって難しいことではなかった。彼女にはいつも無数の愛が向けられていた。それが本当に愛と呼べるものであったかどうかは、いくらカナンが疑ったところで難癖でしかない。人は自分の知っている方法でしか、他者に愛を伝えることは出来ないのだから。


 だが、誰かから向けられる好意に無頓着であったかもしれないという事実は、カナンにとって手痛い気付きだった。


 だとすると、あのレヴィンという男をあそこまで歪ませてしまったのも、あるいは自分に一因があったのかもしれない。どの道彼を選ぶことなどあり得ないとしても、あんな最悪の終わり方ではない、また違った形の決着があり得たかもしれない。


 自分にとって世界一嫌悪感を抱いている男に対してさえ若干の負い目があるとするならば、ましてや自分から愛そうと決めたイスラに対しては、どれだけの負債を作ってしまったことだろう。


 自分自身の心も身体も、本来は己一人きりの専有物だ。だから傷つけることも蔑ろにすることも個々人の自由だ。


 だが、一度誰かと深く繋がりを築いてしまったならば、それは最早自分一人だけのものではない。自分を傷つけることによって、同時に誰かの中に住まわせてもらっている自分を傷つけることになる。


 他者との間に築いた橋に、自ら鶴嘴を入れるような行為だ。


 たとえどれほど自分自身を恥じようと、負い目を持とうと、決して自分を蔑ろにしてはならない。


 何かが辛いならば、その辛さを橋の向こうに持って行って分かち合えば良かったのだ。愛される勇気とは、誰かに自分の弱さを預けるという勇気に他ならない。


(きっと、イスラなら……)


 胸が焦がれるのを感じた。


 どうしようもなく、イスラに会いたいと思った。


 それがどれほど我儘な願いであるかは知っている。それでもイスラは許してくれるだろう。自分のことを怪物だの人間でないなどと嘆く様を見せるより、ずっと喜んでくれるはずだ。


 それは信じるまでもないこと。自明のこととしてカナンの意識に浮かび上がった。



「どう? 帰りたくなってきたでしょう?」



 カナンは頷いた。


 その瞬間、何もかもが光の泡となって弾けた。目の前にいたエマヌエルの姿が崩れ、彼女を包んでいた光の膜が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。


 意識が、眠りの澱みを突き抜けて、冷え冷えとした現実へと急速に浮上する。間欠泉の噴出のように沸き上がった思惟と天火とが全身の隅々までも満たし、一切の機能を正常に回復させ、彼女を覚醒させた。


 カナンは、ぱちりと目を開いた。


 すぐそこに、自分を覗き込むイスラの金色の瞳が待っていた。


「カナっ、……!?」


 彼が名前を呼び終える前に、カナンは彼の背中に両手を回して抱き寄せていた。


 ちゃんと愛そう。


 ただイスラを愛するだけではない。彼の中に居るであろう自分を、そしてこの短い人生の中で培ってきた自分自身を愛そう。


 たとえ自分が何者であろうとも、全てを受け容れて曝け出そう。


 もう「愛してくれますか?」とは聞かなかった。戸惑いながら、それでも強く抱き返してくれる腕が全てだった。


 自分は確かに愛されている。


 愛されることはそれ自体が喜びであり、承認なのだ。


 だから、認められていることを認めよう。


 ちゃんと愛されよう。


 イスラの身体に顔をうずめながら、カナンは何度も自分に誓った。

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