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【第二二五節/「不滅の天火」】

 意識の澱みの底。流砂のように積もった様々な記憶を通り抜けて、さらに深く沈み込んでいく。カナンは無意識の領域へと沈降していった。


 巻き上がった泡に、旅の記憶が次々と映し出されては、彼女の手をすり抜けていく。だが、彼女はそれを手繰り寄せようとはしなかった。生死の境にあっては、最早自分を自分と認識することすら難しい。そして、強く自意識を保とうという欲求もすでに失われつつあった。


 だから、そのまま何の介入も無ければ、カナンは自分の命を手放してしまっていただろう。



「カナン」



 声が聞こえた。辛うじて残っていた彼女の意識の断片が、その声音を拾い上げる。


 決して聞きなれた声ではない。だが、忘れることも出来ない響きだった。明瞭でありながら、温かさや包容力を感じさせる。


 薄れかけていたカナンの意識が一気に形を取り戻し、彼女の周囲に一つの領域を作り上げていく。


 カナンは書架の間に立っていた。どの段も分厚い本で埋められていて、収まりきらなかった物は石造りの床に直接積み上げられている。ふと振り返ると、そこには横たわって眠れる程度の長椅子が置かれていて、ひじ掛けに厚手の毛布が引っ掛けられていた。


(ああ、ここは……)


 忘れようはずも無い。自分の家の書庫。そして、旅に出る前の自分にとって、心底居場所だと思えた数少ない領域の一つだ。


 ここにあった数多くの本たちが、今のカナンの自意識の基盤となった。建物の基礎を造るように、言葉によって思考を固め、その上にエデンへの旅という夢を積み上げていった。


 この世に、自分の本当の居場所を見つけるために。


 自分自身の存在を認めてあげるために。


 他者の幸福を実現することが、ひいては自分の生まれ持った豊かさを肯定し、蒼い炎の異端性を薄めてくれると信じて、ここまで歩き続けてきた。カナンにとって自分の力で人を幸せにすることは、比喩でも何でもなく、真に自己の幸福へと繋がる行為なのだ。


 だから、今までの何もかもが真心であったとも言えるし、同時に打算であったとも言える。


(でも、それも全部台無しにしてしまった)


 イスラを傷つけてしまった。


 こんな自分を受け容れ、ここまで付き添ってきてくれた人を、最後の最後で信じ切れず置いてけぼりにしてしまった。


 考えなくとも分かったはずだ。たとえ自分が人間でないとしても、彼はそんなことを全く頓着しないであろうことを。ディルムンで真実を知った時でさえ、彼は全く動揺しなかったではないか。至高天のことを説明した時に「甘えてくれ」と言われていたはずなのに、その言葉も踏み躙ってしまった。


「……最低」


 もしも自分自身を二つに分けることが出来たなら、今一番やりたいことは、そのもう一人の自分を全力で蹴り倒すことだ。


 無論、いくら自分を責め苛んだところで、何一つ慰められはしない。


(こうして、いつまでも夢の中に引き籠っていたい)


「ダメよ、それは」


 聞き間違いなどではない。それは確かに他人の声だった。カナンがハッと顔を上げると、書架の谷の突き当りに、誰かの気配を感じた。


 かつてエデンに向かうための地図を描いた机の前で、一人の女性が悠然と腰かけている。一度しか会ったことの無い、しかし忘れることの出来ない人。



「エマ……?」



 そこにいたのは、紛れも無くエマヌエル・ゴートその人だった。カナンがラヴェンナを訪れた日に着ていたのと同じ質素なドレスを纏い、肩には白色金の髪を枝垂れさせている。少し垂れ気味の目じりは、そのまま彼女の人柄を示すかのようだった。


 夢が見せた幻かと思ったが、彼女の存在はあまりに明瞭だった。その輪郭を縁取るかのように、白く輝く光が微かに瞬いていた。


「久しぶりね、カナン」


「エマ、本当に貴女なんですか?」


 幽霊じゃなくて? と言いかけた。その言葉を察して、エマヌエルは苦笑する。


「幽霊みたいなものね。でも、もっと正確に表現するなら、魂の残り火のようなものよ」


「残り火?」


 エマヌエルは右手を差し出し、そこに白色金の炎を出現させた。


「ゴート家に代々伝わる天火……でも、普通の天火と違う割に、そこまで強大な力を持つわけではないの。もちろん少しは差があるけれど、きっと貴女の蒼い炎の方がより強い力を持っているわ。

 私も生きている間はこの力の本質に気付けなかった。それが分かったのは、私の肉体が致命傷を負った後だったの」


 それだけの既知数があれば、方程式の解を求めるのはカナンにとって簡単なことだった。


 自分の持つ天火も含めて、色付きの天火には他の物と異なる性質が備わっている。現にベイベルの黒い炎は異常なほどの出力を誇っていた。それ自体がベイベルの天火の特色だった。


 エマヌエルはどうか。


 天火を発現させるシオンの血は、しかし必ずしも全ての女性を継火手にするわけではない。祭司の家の姉妹であっても、姉は継火手になれず、妹だけがそうなる場合もある。


 世代を超えて途切れることなく継承される力。そして、今彼女がここにいるように、死してなお残り続ける力。



「……不滅の天火?」



 エマヌエルは頷いた。ただし「不滅かどうかは分からないわ」と付け加えて。


「少なくとも、王家の間で長く受け継がれていくために何か細工が仕込まれていたことは確かね。世代間の継承はもちろん、不慮の事態で生命の危機に瀕した場合、それを誰かに託すために。

 だから私は、残った天火の全てを月桂樹アウレア・ラウルスに……あのオレイカルコスで造られた剣に込めて、オーディスの元に届けさせたの」


 そして彼女は顔を伏せた。今の説明でカナンにも分かった。誰が自分を刺したのかを。


「ごめんなさい。彼に代わって謝らせて。貴女を傷つけてしまったこと……」


 あまりに色々なことを教えられたため、整理するのにいささか時間が必要だった。しかしカナンは、決して悪感情を抱いてはいなかった。むしろ不思議な穏やかさが胸中を満たし、ただ自分を責め苛むばかりだった刺々しさが癒されるような気がした。



「良いんです……もう一度、エマに会えたから」



 そう言って、カナンは少しだけ微笑んで見せた。


 夢の中ではあるにせよ、久しぶりに……そう、随分と久しぶりに浮かべられた笑顔だった。

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