背中に感じていたソフィアの息遣いが、徐々に弱まっていくのが分かった。
フィロスの背中には彼女の吐き出した血の雫が点々と染み付いていた。しかし最早、満足に咳をするだけの体力も彼女には残されていなかった。震えもずいぶん前に止まっていた。筋肉を痙攣させるだけの力すら尽き果てたのだ。
もう手の施しようも無い。たとえフィロスの魔力が完全であったとしても死を免れ得ないだろう。そして彼自身、自分の命がそう遠からず潰えるであろうことを悟っていた。むしろ、そうなることを希望してさえいた。
今や何よりも摩耗しているのは、彼自身の精神そのものだった。降り積もった雪が地表を隠すように、彼の精神活動もまた、自分自身に掛けた様々な呪いで覆い尽くされ働かなくなっていた。
正確には、自分の心を氷漬けにすることで、発狂の一歩手前で踏みとどまっていたのかもしれない。何も感じなくなった心と、壊れた心とにどれほどの差異があるかはフィロス自身にも分からないが、少なくとも、足を止めずに済んでいた。
いつしか雪は止み、空には金色の満月が浮かんでいた。鈍い光が静穏な白い大地に降り注ぎ、仄かな照り返しを生んでいる。自分たちの息遣いと足音以外には何も聞こえてこない。
靴はとうの昔に濡れそぼっていた。四肢の感覚が曖昧になって久しい。ソフィアを支えていられるのも、腕がそういう形で緊張し切ってしまったからだった。指先などは凍傷を負っている。何の処置もしなければいずれ腐り堕ちるだろうが、それよりも自分たちの命が潰える方が先に違いない。
そんな有様だったので、ソフィアが身じろぎをした時、堪えることも出来ずあっさりと倒れてしまった。二人揃って雪の中に埋まりながらも、フィロスはほとんど機械的な手つきで彼女の身体を抱き起した。
「……先生……」
その呼び名に、凍り付いていたはずの彼の心が騒いだ。
ソフィアの蒼い瞳がじっと彼を見つめていた。すでに視力のほとんどを失っているにも関わらず、その目にはまだ小さな残光が宿っていた。
そして、文字通り最後の力を振り絞って、彼女は師の顔に触れた。死の淵にある者の冷たさが彼を貫き、分厚い氷の奥に封じていたものを刺激した。死者特有の冷たさというものは、死という概念の何たるかをこの上なく思い知らせてくれるものだ。ましてや親しい者の肉体が「物体」に変わっていく無情さは、どんなに頑なに閉じこもった心であっても無理やりに現実へと引きずり出してしまう。
ソフィアはその最期の瞬間まで、フィロスが立ち止まることを許さなかった。
「……済まない、ソフィア……ソフィア……!」
そんな彼女に対して、フィロスはただただ謝ることしか出来なかった。何を謝罪しているのかすら曖昧だが、兎も角謝らなければ堪らなかった。この世の何もかもが謝罪の対象であるように思えた。何となれば、自分が生まれてきたこと自体、彼女を保護したこと自体を謝らねばならないと思った。
だが、ソフィアは元より謝罪など求めていなかった。
彼女は穏やかな表情を浮かべたまま、首を横に振った。
「謝らないで。先生、謝らなきゃいけないのは、私の方……だって……」
けほっ、と小さな咳が漏れた。「だって」
「ごめんなさい、先生。私、ひとつだけ嘘をつきました」
「嘘……?」
「そう。ずっと、嘘をついてました。清く生きるように……生きているように、見えるように……」
頭を殴られたような気がした。フィロスは思わず詰め寄っていた。
「この旅の間、ずっと……!?」
その時彼女が浮かべた表情は、まるで悪戯の現場を見つかってしまった子供のようにバツの悪そうな、それでいて茶目っ気を含ませた微笑だった。
「全部が全部、じゃない、よ……正しく生きていたら……何も手に入らないけど、でも、私を人間のままでいさせてくれるって……それはそれで、間違ってない。嘘じゃない。
だけど……だけどね、先生……」
ソフィアの痩せた腕に導かれてフィロスは頭を垂れた。その額に彼女はそっと唇を触れさせた。乾ききって、仄かな熱さえ失った唇の感触が、それでもフィロスの精神をまたしても激しく揺さぶった。
「先生。私は、良い生徒でしたか?」
雪原を沈黙が包んだ。最早彼には言葉を紡ぐことも出来なかった。ただ彼女を抱き締めて、声も立てず涙を流すことしか出来なかった。
ソフィアは息絶えるその瞬間まで、何もかもを失った男の背中を優しく撫で続け「大丈夫」と声を掛け続けた。やがて澱みの底に沈むような没入感が彼女を襲い、霞んで見えていた世界の一切合切が闇に帰するその瞬間、夜闇に支配された天空に燦然と輝く光を見失った瞬間、ソフィアは末期の言葉を紡いだ。
「きっとまた、世界に光は戻ってくるよ。だって……」
だが、その言葉をフィロスが正しく解することは無かった。
◇◇◇
気が付くと、フィロスは寝台の上に寝かされていた。天井から吊るされた灯火が瞬いている。その光に当てられて、いくつかの影が揺らいでいた。
「お目覚めですか、賢者フィロス」
影の一つが喋った。フードの下からのぞく顔にフィロスは見覚えがあった。ハザルの賢者の一人だ。それに気づくと同時に、彼は自分の置かれた状況を即座に理解した。寝台から跳ね起きようとするが、身体は縫い付けられたかのように動かない。叫ぶことしか出来なかった。
「何故、生かしたッ!!」
瞬間的に胸を満たした激情に反して、絶叫はひどく弱々しいものだった。治療を受けてなお彼は重体であり、意識の回復までに短くない時間を費やしていたのである。身体の末端は凍傷でぼろぼろになっていた。肺にも労咳の菌が入り込んでいた。息をするだけでも苦しい。
それでもフィロスは「何故」と怒鳴り続けることしか出来なかった。
ひとしきり怒鳴り、やがてそれは嗚咽へと変わった。
「死なせてくれ」
今のフィロスには、それ以外に願いなど無かった。守りたかった少女を喪い、己の誇りや矜持すらも穢し尽くしてしまった。
孤児院のことも諦めていた。あの混乱の中にあって、無力な子供たちが生き延びられたとは到底思えない。これ以上、誰が死んだかなどという絶望的な知らせを聞きたくなかった。
「何故、死を望まれるのです?」
賢者の一人が、そう尋ねた。愚問も良いところだ。
「何もかもを失った。教え子も、誇りも、人としての倫理も……私は生きている資格を全て失った。いるだけ無駄だ。どうか殺してくれ。それが出来ないなら、放っておいてくれ」
「貴方の仰ることは分かる。しかし、貴方の願いを聞き入れることは出来ない」
フィロスの中に、火の粉のように殺意が飛び散った。怒りのままに彼はローブの裾を握り締めた。
「ふざけるな、私の死は私のものだ……! こんな私に意味など……」
その賢者は、フィロスの手を振り払おうとはしなかった。彼はその場に片膝をつき、横たわるフィロスと目線を合わせた。彼はフードを下ろした。
瞬間、フィロスは息を呑んだ。そこに自分が蹲っていたからだ。無論別人である。しかし、フィロスと同量同質の絶望を呑み下したであろう顔だった。心の傷はすべからく顔に現れる。彼が体験した絶望は、フィロスとまた異なるものであったかもしれないが、深く深く精神を抉られたことだけは確かだった。
他の者たちも次々にフードを下ろす。目の中に幸せの色を残している者は一人としていなかった。
「我らのうちで、貴方のように死を望まなかった者はおりません。今もそうです。我々は死にたいと思っている」
「ならば、何故……」
「為すべきことが残っているからです」
その使命を口にした時、死者のものとほとんど変わらなかった彼らの瞳の中に、確かに光が宿ったのをフィロスは認めた。そして彼自身、「為すべきこと」という言葉を知らず知らずのうちに呟いていた。
「賢者フィロス。我々は滅ぶべき種族です。そうは思いませんか?」
「……思う」
フィロスの脳裡を、人間の様々な罪が横切っていった。その中の一つには、無論己のことも含まれている。
「我々は、我々こそ万物の霊長と信じて文明を築いてきました。我々の研究は常にそのためにありました。
しかし、その結果がもたらしたものがこれです。我々は魔導災害について責任を負わねばなりません。そして、その贖罪を受け取るべきは現行の愚かな人類などでは決してない。我々が咎人であるのと同様に、魔導による利益をただ享受していた彼らも同罪なのです。
我々にはこの災害を終わらせる義務がある。そして、清浄な世界を、清く正しき後継者たちに継承しなければならない。
天使のような、子供たちのために……」
「天使……」
一人の少女が微笑むのが見えた。彼女が死んでしまった今、それは最早幻想に過ぎない。
(否)
フィロスは自身の認識を否定した。それは幻想などではない。出来損ないの自分たちが目指すべき到達点なのだ。約束の大地の上ならば、あの清廉な乙女も穏やかに生きていくことが出来るはずだ。いつか現れるであろう彼女の生まれ変わりのために、世界を再生させる。フィロスにとってそれは誇大妄想などではなく、実行することが当然のことだった。
「そうだ、天使……天使だ……!」
充血した目を見開いて、喘ぐようにフィロスは叫んだ。傍から見れば明らかに狂気に囚われた者の表情であったが、この場に正気の人間など元より一人もいない。
大脳の隅まで満ち満ちていた死の情動は、今や狂気によって希望という名の衣を纏うに至った。しかしその根底にあるのは、依然として強烈な自責と絶望である。命に対して常に目的を問い続けるのが人だが、彼らはその本来性を棄て去って、ある特定の目的のために全身全霊を賭けることを決意した。
換言すれば、楽園を創り上げるための機械になろうと決心したのだ。
フィロスは、それで良いと思った。この世に自分の居場所など無くとも良い。創り上げた楽園の平和を見ることが無くても良い。たどり着くべきその場所で、ソフィアのような優しく賢い子供たちが、永遠に幸せに生きていく様を想像するだけで、何もかもが赦されると信じたのだ。
「博士。ご協力頂けますか」
「無論! 無論です!!」
最早迷いはない。こんな所で寝ている場合ではない。逸る彼をなだめつつ、ハザルの賢者たちはまず何をするべきか彼に問うた。いつか世界を再生させなければならないが、そのためにはまだ力が足りない。
この壊れた世界を継承、維持し、なおかつ繁殖を繰り返す人造天使が必要だ。
その究極の果実こそ、世界を蘇らせる真の天使に他ならない。それが現れるまで旧人類を導くのは、どのような存在か……。
「やはり、怪物を用意するべきでしょうか?」
すでに人造天使の雛型はいくつも提唱されている。いずれも正視に耐えない醜い生き物ばかりだ。しかし俗物共が生き延びるためには、それに縋るしか方法が無い。
だが、フィロスは「否」と答えた。
いくら必要に迫られたとて、それでは人々の忠誠を得られない。現にフィロスは、ソフィアの美しさが人々を癒すところを目の当たりにしたのだから。
「駄目だ。紛いなりにも天使として創るからには、美しくなければならない。美しくなければ天使ではない。
そうだ。彼女は決して病を得ない。酩酊に溺れることも、毒で眠ることも、暴漢に組み伏せられることもない。
そうだ、そうだそうだ、私が与えてやろう、やらねばならぬ。ソフィア、お前を死なせはしない。何もお前を傷つけられない。お前は死から解き放たれるのだ。
今度こそ間違えない! 私はもう間違えない!
光は戻ってくる……そうだ戻ってくる! お前こそが光だ! お前が戻ってくるから戻ってくるのだ!!」
言葉が止まらなくなった。そんな彼を見下ろしていた賢者たちは、互いに顔を見合わせた。同じ狂人同士であっても、あるいはだからこそ、他の狂人がより一層奇異に映るものだ。フィロスは天使という言葉に拘るあまり、人造天使と新しい人類とを同一視してしまっている。
フィロスは天使に憑り付かれてしまった。
だが、それはそれで良い。彼は全身全霊を尽くして人造天使を生み出すだろう。
万が一、億が一、そんな天使たちを人々が追い払うことがあったとしても、それはそれで良い。到底良い世界を構築出来るとは思えないが、一応の温情と可能性は残しておいてやろう。
それに、もしそのような方向に進んだならば、世界は滅びを免れなくなる。
それこそ、神が滅びを望んだということなのだろう。
◇◇◇
「……全ては計画通り。我々の予測は正しかった」
オーディスの口から呟きが漏れた。それが、エデンの樹になった者たちの中の誰が意図して言ったかは、最早判然としない。彼らは群体でありまた個体であった。狂気も希望も絶望も、今や一つの集合人格として収斂している。
仄かな感傷を振り切って、
一切の願いを叶えるために。
甘美なる死と、天使たちの楽園を求めて。
「じきに全てが成就する。
黎明は、すぐそこだ」