雪が降るようになった。地上が闇に包まれても四季が動いているという事実にフィロスは空恐ろしさを覚えずにはいられなかった。
一体自分たちは、この世界をどれほど歪にしてしまったのだろう、と。魔法を使うたびに、この一事が杯を溢れさせる最後の一滴かもしれないと思い、腕が震えた。
(いっそ、そうなってくれれば)
こんな中途半端な形でしか世界を救えなかったのならば、擬神話術式など使わず、滅びるに任せれば良かったのではないか……鬱と自己診断を下して以来、そんな考えがフィロスの頭の一角を占めるようになった。
自分一人ならばとうの昔に死を選んでいただろう。
だが、ソフィアの病がそれをぎりぎりのところで押しとどめていた。
様々な証拠が、彼女が労咳を得たという事実を彼に突きつけていた。有効な薬は無く、病気の進行を抑えることが出来るのは彼の魔法のみである。フィロスは他人のことも、そして自分のことも脇に置いて、ひたすら彼女の治療に専念するようになった。
だが何もかもが不足していた。清潔な衣類や住居は望むべくもなく食料すら満足に得られない。あれほど二人を慕っていた難民たちでさえ、ばつの悪そうな表情で言い澱むばかりだった。その癖自分たちの事となると臆面も無く縋りついてくる。最早フィロスにとって彼らは明確に「敵」でしかなかった。
それこそ馬車で彼らを轢き飛ばしながら逃げ去りたかったが、肝心の馬たちですら力尽きかけていた。最早引っ張るのが精いっぱいという有様である。
しかし、もし馬が健在だったとしても、ソフィアは人々を置いていくことを喜ばなかっただろう。
ある日、フィロスは比較的物持ちの良い難民から、梅毒の治療と引き換えにほとんど強請るような形で食料を得た。まともな麦だけでなく、羊の乳や蜂蜜までもが手に入った。
人々が、梅毒の持ち主を見る目線は厳しい。このような状況下で他者からの繋がりを失うことは、病の進行以上に命を縮めかねない。フィロスはあえてそのように言うことで患者の心を屈服させたのだ。
そうして手に入れた食料を携えて馬車に戻り、粥にしてソフィアに食べさせようとした。
「ありがとう、先生……」
ソフィアは、だが師の手を弱々しく、しかし断固として押し返した。これほどの食べ物がまともに手に入るはずがないと、彼女も分かっていたのだ。それにしても「何故!!」とフィロスは怒鳴らずにはいられなかった。
「先生……私は被害者にも加害者にもなりたくありません。私は、その外側に立ちたいのです。きっとそこだけが私の居場所になります」
「それで何が得られる? そんな立ち位置に、意味など……」
「そう。きっと何も手に入りません。だけど、自分がそこに立っているという事実だけは手に入ります。その事実が……私を、人間の、まま、で……!」
咳の発作によって問答は中断となった。
彼女は清らかで、それ故に憎みたくなるほど残酷だった。
だが、最早フィロスにとって、彼女こそがこの暗闇に包まれた世界で唯一の光だった。灯火だった。例えその火が己の身を焦がすとしても構わなかった。
◇◇◇
襲撃は唐突だった。もちろん、敵が自分たちのことを慮ってくれるはずなど無いので、それは当然のことであろう。
だが、難民居留地の外延部から火の手が上がった時、フィロスの胸中は「何故」で一杯になった。
世界がこのような状況であるにも関わらず、何故協調出来ないのか。何故奪ってまで生き延びようとするのか。そんな疑問が浮かんだのだ。自分が、ソフィアのために食料を分捕ったことは、その時彼の記憶から抜け落ちていた。
今やフィロスの精神は完全に分断されていた。賢者として崇め奉られる人格者……その虚栄と、たった一人の死にかけの少女を心の拠り所とする弱者。力はそれ自体では意味を持ちえない。力を振るう者の精神に意味づけられることによって、はじめて価値が決定されるのだ。
だから、いかに人を癒す魔法が使えようと、精神が低俗ならば素晴らしい力も貶められるのである。
しかしそんな彼を責められる者はどこにもいないだろう。この時の襲撃者たちも、また別の難民たちであった。最早暴力によって奪い取ることが当然の状況になっていたのだ。すなわち社会性の崩壊が決定づけられた瞬間であり、戦争の無い時代……万人の万人に対する闘争の開始が告げられた瞬間であった。
そんな状況下にあっては、人はひたすら利己的に振舞うほかない。
フィロスにとってこの襲撃は、ソフィアを運び出す好機以外の何物でもなかった。
空からは淡い雪が優しく降り注いでいる。自然界は全く静寂を保っていた。それだけに、人間の巻き起こす様々な
血と灰とが撒き散らされた大地に、静かに雪が降りしきる。
(消えれば良い……何もかも消えれば良い……)
決して屈強とは言えない身体だが、そんなフィロスでも背負えるほどに、ソフィアの身体は軽くなっていた。医師として様々な死者を目の当たりにしてきたフィロスは、彼女がすでにどうあがいても助からないであろうことを悟っていた。人の死の兆候を、目で見る以上に五感で感じ取れてしまうのである。半ば狂人に堕ちかけていても、長年に渡って積み上げた経験則は彼に無機質的な現実を突きつけるのであった。
孤児院のある場所まで、歩いてたどり着けない距離ではない。しかしこんな病態の者を、しかも雪の降る中で連れて行くのは、最早殺人とさして変わらない。果たしてソフィアがそれを望んでいるかという確認すらとっていなかった。最早、医師や賢者としての誇りなどずたずたに傷つき果てていた。
ふと顔を上げると、闇の中に奇妙な生き物が突っ立っているのが見えた。
その生き物は、一見すると人間のように見えた。上背がある割に不愉快なほど細い。しかし首から上は鹿に似ていて、額に大きな赤い眼球が埋め込まれている。口元はあたかも嘲笑するかのように三日月型に釣り上げられていた。それでいて、己の無害さを主張するかのように、断ち切られた両腕をだらりとぶら下げている。
しばらくの間、フィロスはその生き物と睨み合っていた。否、その生き物の眼球に映し出された、自分自身の姿を睨み付けていた。自分や、生き物の身体に薄く雪が積もっていくことにも気づかなかった。
そこにいたのは、人間の残骸そのものだった。骨と皮とを白髪や髭で覆い、眼球だけは異様にぎょろつかせて必死の形相を浮かべている。しかしそれは良い。フィロスをより一層打ちのめしたのは、そんな自分の顔に浮かび上がっていた、どうあがいても拭い切れない卑しさの表情だった。
自分の犯してきた数多くの二律背反や、心の内に巣食う傲慢さをまざまざと見せつけられるような気がした。思えば、最後にまともに鏡を見たのがいつだったか思い出すことも出来ない。それはもしかしたら、自分がどこか無意識のうちに鏡から逃げていたからなのかもしれない。
しかし何より悲しいのは、この期に及んで自分が「自分自身に失望している」という、個人的な事情を最も重く見ているという事実だった。
どこまで行っても我が身可愛さに振り回される。死にかけの教え子を背負っているこんな時でさえ。
フィロスは並みの人間よりも遥かに真面目な男だった。それ故に、他人よりもより一層強く自身を責め苛んだ。そのような性分でなかったならば、もっと気楽に堕落することも出来ただろう。
生き物のすぐ隣を通り過ぎた時、フィロスは誰に向けるでもなく謝罪の言葉と、自己への呪いとを呟いていた。
小さな一つ一つの言葉たちは、雪の結晶のように少しずつ、しかし着実に彼の精神に降り積もっていった。