カナンが黒い天火を用いて捧げた祈りは二つ。
一つは世界を覆う厄災を治めること。
もう一つは、人間の世界と至高天との接続を永久に切断すること。
言葉にすれば単純だが、それを可能にするためには膨大な力が必要だったし、同時にその力を制御することも求められた。カナンの蒼い天火はかつてどんな継火手も持ち得なかった制御力を誇るが、その彼女の力をもってしても、世界を改変するほどの術を使役するのは困難を極めた。
(この感じ、今までとは……!)
カナンはこれまで何度か至高天の姿を垣間見てきた。しかし、それらはいずれも偶発的なものに過ぎない。彼女が自らの意思で至高天に接続し、本来絶対であるべき法則を改変しようと働きかけるのは初めてである。
その試みはすなわち、至高天の制御系とでも言うべきものに直接触れるということだ。
無論、全宇宙の運行を司る機構からすれば、ツァラハトの人間が壊した部分も、カナンが触れようとしている部分も、末端の末端の末端に過ぎないかもしれない。しかしそれでさえ、人間の精神が許容し得る情報量を遥かに超えている。
従って、カナンの意識は混濁した。そして彼女の傍らで同じ黒い天火の流入を受けていたイスラも、その膨大な情報の渦に呑み込まれた。
二人の視界は極彩色の光線に完全に支配された。もし極光の中を突っ切ることが出来るなら、そこに彼らが見たのと同じ光景を見出せるだろう。彼らは光の迷宮の中で上下左右の感覚を失い、同時に時間経過の感覚さえも忘れ去った。だから途切れる事なく続くように思えたし、瞬き一つ分の時間さえ過ぎていないように思えた。その全く矛盾した二つの感覚が、二人の認識下では矛盾無く成立したのである。
支配されたのは視覚だけではなかった。聴覚、触覚、嗅覚、果ては味覚まで、ありとあらゆる身体感覚が異常をきたした。まるで全身に張り巡らされた神経系が、何者かによって別の感覚器へと繋ぎ直されたかのようである。そこでは熱いということが甘く、喧しさは雨の匂いがして、触れれば波の音がした。
しかし、それが非常に危険な状態であることを、カナンの理性はしきりに訴えかけていた。このままでは自分たちの存在認識そのものが消滅しかねない。その結果どうなるかは想像するしかない。そうなってしまった者に会ったことは無いから。だが、死ぬこととどちらがマシか、という域の体験になることは間違い無いだろう。
だからカナンは、より一層強く祈りの言葉を念じ、そして傍らのイスラの存在を感じようとした。たとえその感覚が散々に捻れ乱れているとしても、彼は彼なのだから。
そしてイスラもまた、カナンと全く同じように振る舞った。
どれほど感覚が麻痺しようと、どれほどの情報が浴びせかけられようと、二人はただ隣に立つ者を感じ、互いの祈りに絶対の信を置いてひたすら耐え続けた。一瞬とも、永劫とも分からない時を。
終わりは唐突に訪れた。しかしそれは、同時に新たな困難の始まりでもあった。
天上から金色に輝く光が滝のように降り注いだ。
同時に二人の聴覚は解読不能の聖歌によって完全に満たされた。その音もまた、眩い光そのものとしても認識出来た。音と光の間に差異は無かった。先程と全く同じだ。二つの状態が一つの状態として重ね合わせられることに、一切の矛盾が存在しなかった。
しかし一つ明確に異なっていたのは、先ほどの現象が途方もない混乱を引き起こすものであったのに対して、今度のこれは危険なほどの没入感を伴っていたことだ。
すなわち、自分と至高天との境界が曖昧になり、存在そのものが光り輝く卵や聖なる歌と一体化してしまうという危険性である。それこそ、完璧な合唱隊の中で己の歌声が融合し、一つの巨大な楽器へと昇華されていく陶酔感と似る。
ともすればカナンもイスラも、何度となく自分たちが何を望んでいたか、そも自分たちとは何かということを忘れかけた。すでに肉体的な感覚は意味を持たず、どこからが自分の思惟かさえ判然としないところまで追い詰められた。
そして祈りの内容を忘れるということは、それまで保っていた
……私は何を望んでいただろう? 俺の隣にいるのは誰だろう?
私の名前は?
イスラ。
お前はどこから来た?
夜の森の中から。
貴方はどこへ向かうの?
エデン。
『本当にそうかね?』
意識に割り込んできたその声と共に、イスラは自分の右腕の存在を思い出した。ハザルが末期を迎えた際に、彼の身体に潜り込ませた
『任せろと言ったのは君だろう? ならば全てを引き受けたまえ』
「……言われなくても!!」
イスラは叫んだ。その声に呼応して、彼の右腕に埋め込まれていた種子が開華した。それがどのように広がり、至高天に対して働きかけていったかイスラに知覚する術は無い。だが、ハザルの遺した擬神話術式は一片の誤りも無く完璧に作動した。
まるで霧が吹き払われるかのように、二人を襲っていた光の奔流が静まっていった。イスラはカナンを、カナンはイスラをすぐ傍らに認め、そして自分たちが翼を生やした卵たちの浮遊する空間に踏み入っていることに気付いた。
遥か天高くに、白い薔薇のようなものが輝いているのが見える。緩やかに回転を続けるそれに目を奪われながら、イスラはぽつりと呟いた。
「あれが、
「ええ」
人間の認識力では、あの輝く薔薇の総体を理解することは出来ない。ただ見上げているだけの、魔導の素養など全く持ち合わせていないイスラでも、あれが全宇宙の運行を司る大いなる仕組みであることが直感的に理解出来た。そして、そこに
だが、かつての人々はそれをしようとしたのだ。
右手の甲を突き破って現れていた小さな花が、見る間に枯れて散らされていく。
「……あれが、俺たちの神様なのか?」
神にも見まがう装置を目にした凡人としては、そう問うてみたくなるのも無理からぬことだった。
だが、カナンは即座に「違うと思います」と否定した。
「何でそう思うんだ?」
「あれはただの仕組み。機械のようなものです。高い所から物を落としたら下に向かうとか、熱い物を放っておいたら冷えていくとか、そういう当たり前のことを当たり前に成立させるための装置なんだと思います。だから……」
カナンは己の手元に視線を落とした。イスラもつられて同じところを見やる。
彼女の腕は火傷に覆われ、稲妻のような
その炎は、外側は黒く、内側に向かう程蒼く変じているようだった。
「……私たちにはまだ、あの大いなる力のほんの一部に触れることさえ早過ぎるんです。いつか人間が、魔導なんていう裏口を使わなくても、自らの純粋な努力によってあの至高天に触れる日が来ると……そう信じたいんです」
「それが、お前の祈りか」
「はい。もちろん、それだけじゃありませんけど。でも、それは至高天にではなく、本物の神様にお祈りすることにします」
手の平の上に聖杯を乗せたまま、カナンは小さく笑った。
「きっと神様はいる……私たちの神様は、上から見下ろしている冷たい枠組みなんかじゃなくて、すぐ傍の目立たないところでひっそりと祈りの声に耳を傾けている……そんな存在じゃないか、って。そう思うんです。
もし、そんな神様が本当にいるとしたら、きっと私たちの世界だって救ってくれるはずですよ」
そして、カナンは高く腕を掲げた。
その内側に祈りを満たした聖杯が静かに手の平から離れ、無限とも思える高みに浮かぶ白い薔薇を目指して、緩やかに昇っていった。