イスラが自失していたのは、ほんの僅かな間だけだった。
やがて彼は血の滲み出る床に手をついて立ち上がった。断続的な震動に負けないよう、握ったままだった
「ケリをつけよう、カナン」
尻もちをついたままのカナンを振り返り、イスラは手を差し出した。彼女は無言のまま頷いたが、その手を取ろうとして痛みに顔を顰めた。
イスラも気付いた。黒炎を受け容れた彼女の両腕は、大槌で叩かれた石畳のように、内側から噴き出した炎によって散々に罅割れていた。
カナンは咄嗟に腕を引っ込めようとした。痛みのためだけはなく、見られたくないという意識が反射的に働いたせいだった。だが、イスラはカナンが引いたよりもさらに深く右腕を潜り込ませて、彼女の身体を引き寄せた。
いつの間にかカナンは、イスラの胸に頭をうずめる形で立たされていた。背中に触れる大きな手の感触や、腕に込められた力の強さは、彼の感情を言葉にするまでもなく彼女に伝えていた。カナンはイスラの胸板に静かに額を擦らせた。
「……とは言っても、俺には妙案なんて無いんだけどな」
「大丈夫。ちゃんと考えてありますよ」
カナンは一歩後ろに下がり、鳥籠の中心で燃え立っている黒い核を見やった。イスラもつられて同じ方を向く。
「さっき言ってたこと、イスラも聞いてましたよね? 私の天火の本質は、他の継火手には出来ないような強大な力をも制御すること。だから、ベイベルの黒炎も受け容れることが出来た……」
「……腕は大丈夫なのか?」
「ぶっつけ本番でしたから。でも、次はもっと上手くやれますよ!」
「つまりもう一度さっきと同じことをする。そういうことだな?」
「はい」
カナンは淀みなく答えた。自分が何をしようとしているのか理解しているのは、他の誰でもない、自分自身だ。
彼女の蒼炎には、確かに他の天火とは隔絶した制御能力がある。だからこそ、ベイベルの黒い天火を凌ぐ威力の法術を放っても、自分自身が苛まれることはない。
しかし何事にも限界は存在する。蒼炎の制御能力がいかに優れていようと、無限とも思えるほどの黒炎を制しきることは不可能だ。正確には、カナン自身が溜め切れない。必ずどこかで決壊を起こす。それは腕に負った傷が証明している。
だから、吸収した天火は即座に術へと変換して消費してしまうのだ。少しでも滞らせてしまえばベイベルと同じ火達磨になる運命が待っている。
カナンはあえて計画の全貌を口にしなかった。半分は、イスラに止められるかもしれないと考えたから。しかしもう半分は、イスラがすでに何もかもを察しているかもしれないと思ったからだ。
そして、後者が当たっていた。
「俺も手伝う……いや、手伝わせてくれ」
イスラとて、カナンの考え全てを読み取ったわけではなかった。しかしカナンは、土壇場に追い込まれれば必ず無茶をやらかす。前科を数えだしたら
「その腕だ。剣を持ちあげるのだって難儀だろ? ここまで来て、後は自分だけに全部引っ被らせろ、なんて通らねぇぞ?」
カナンはくすりと笑った。「分かってますよ」
「でも、死ぬほど痛いかもしれませんよ? 身体の傷を治すくらい、黒炎の力を借りたら簡単でしょうけど、痛みは痛みです。それに」
「お前なら全部上手くやってくれるよ。もう任せるって決めたからな」
カナンはもう「良いんですね?」などと確認はしなかった。
イスラにしても自分にしても、無論この世界を救いたいと思っている。この世界で生き続け、共に見たことのないものを見ていきたいと願っている。それはまごうこと無き本心だ。
だが、一方でどうしても、こう思ってしまうのだ。
言葉も何もいらないほどに心の重なった今この瞬間のまま、一緒に死んでしまっても悔いは無い、と。
(だけど、それだと未来には行けないから)
見えざる運命ほど恐ろしいものはない。思えば、旅に出る前の自分はとことん無邪気だった。旅に出さえすれば、エデンを目指しさえすれば、それだけで幸せなのではないかと思っていた。頭では理解しても、実感が伴っていなかった。
だが、この波乱に満ちた冒険の日々の中で、心底運命というものの恐ろしさを思い知らされた。未来とは、底を見通すことも出来ないほどに深い湖のようなものだ。手を突っ込めば、一瞬後には手首から先が無くなっているかもしれない。あるいは簡単に手が砂を浚ってしまうかもしれない。
おこがましくも世界を救うということは、今を生きる全ての人々に未来を差し出すということだ。決して見通すことの出来ない深淵に、あるいは今よりももっと深い夜に向けて、見知らぬ人々を突き飛ばすということなのかもしれない。
そこが、そうまでして赴く価値のある場所なのか、神ならざる自分には到底保証も出来ない。ハザルたちが、完璧な天使という誤ることのない未来を求めたのも、理屈だけは理解出来た。
考えても仕方の無いことだ。
(だから)
「イスラ、一つだけお願いをしても良いですか?」
燃え盛る黒い炎の樹の前に立った時、カナンは傍らに寄り添うイスラを見上げて言った。イスラは「何でも」とぶっきら棒に答えた。
「今から私が紡ぐ詠唱、イスラも一緒に唱えてください」
「……良いけど。俺が言って、意味でもあるのか?」
カナンは「あるような、ないような」と曖昧に答えた。何だよ、とイスラが嘆息するが、その表情は歪んではいなかった。
「私の詠唱だって、本当は何だって良いんです。今まで誰も試したことの無い術になるから。
だから、これはお祈り。イスラにも、一緒に祈って欲しいんです」
「祈り、か。神様もいないのに?」
「……ううん、きっと神様はいる……いるって思わなきゃいけないんです。
この世界のどこかには、人間の心の良い部分とか、願ってやまないことを聞き届けてくれる誰かがいる。人間がそう考えてしまうのって、弱さでもあり強さでもあると思うんです。
神様なんていないって、言ってしまうのは簡単ですよ。祈ることに意味なんて無いって決めつけることも。
だから、その逆をするのってすごく難しいことだと思うし、それでも受け容れることが出来たら……素敵じゃありません?」
「……そうだな。そういうことが出来る奴は、きっと強いだろうな」
叶わないことを叶うと信じるのは、苦しいことだ。確かにそれが出来る人間は尊敬に値するだろう。
(けど、俺は)
イスラはちらりとカナンを見やった。カナンも彼を見上げて小首を傾げる。
(叶った側、だからなぁ)
だが、それならなおさら祈るということを信じるべきだろう、とイスラは思った。
「カナン、初めてくれ」
「はい」
カナンは右手に明星を、左手に月桂樹を握った。正確には、布で縛り付けたと言うべきだろう。ともかくもそれで固定している。
イスラは彼女の両手をそれぞれ掴むと、燃える樹に向けて高く掲げた。
黒い炎が二本の傷ついた剣に引き寄せられ、二人の周囲に渦となって横たわる。黒炎は牢獄と同じだった。もう引き下がることは出来ない。
轟音と熱に負けないよう、カナンは声を張り上げた。
「天に座します我らの神よ! 我らの祈りを聞き入れ給え!」
いつもと違う文言を、だがイスラは一拍遅れてなぞらえた。
黒炎の核から眩い光が放たれる。目を開けているのが危険なほどの光量だった。二人とも咄嗟に目を瞑るが、瞼など易々と突き抜けてくる。熱も過酷を極めた。二つの剣が威力を減殺してくれているとは言え、火口の淵に立っているかのようだった。
しかしこれでさえまだまだ序の口だとカナンは分かっていた。そして尚の事、祈りに力を込めた。
「我らの罪を赦し、御怒りの剣を納め給え!」
彼女の放った怒りという言葉に反応するかのように、核から放たれた光線が二本の剣にぶつかった。そこから流れ込んだ炎を、カナンは己の異能をもって中和しようと試みる。
それは生易しい挑戦ではなかった。傷ついた腕を通り過ぎ、彼女の胸に、首に、背中に潜り込み、散々にのたうちまわる。腕と同様の罅割れが全身に広がり、焼け爛れていく。痛覚の絶叫だけで脳が飽和しそうになるのを必死で抑え込みながら、カナンは術の展開と並行して身体の修復を行った。そして治った瞬間にもう一度火傷を負う。その繰り返しが、一秒の間に二十回以上行われた。
同じことは隣に立っているイスラにも生じていた。直接黒炎を摂り込んでいるカナンほどではないが、彼女よりも制御能力が低い以上、痛みや負担は一層重くなった。
だが、イスラは悲鳴を上げなかった。今、自分の口は泣き叫ぶためにあるのではなく、カナンの祈りを追いかけるためだけにあるのだ。そして叫ぼうにも、喉の奥まで炎に焼かれ、一言発するたびに激痛が彼を責め苛んでいた。なればこそ、余計な弱音を吐くために使う意味は無いと思った。
「我らも我らの過ちを償い、星に至る扉を閉じんと欲す。願わくばその扉が、二度と開かれぬよう堅き錠をもって封じ給え!」
二人の頭上で、変換された黒炎が蒼い光を放つようになった。それは睡蓮の華とも器ともとれるような形状となり、燃料が加えられるたびに花弁の数が増えていく。その真下で、イスラとカナンは火刑の苦しみを何百、何千回と繰り返し、炎にまかれて何度も生と死の領域を往復しながら、それでも祈りの言葉を投げ捨てはしなかった。
何故ならこの祈りは、今まで世界の残酷さに押し潰されてきた人々の願いであり、そして今まさに押し潰されんとしている人々を救うためのものだからだ。
自分たちも、その中に属する一個人に過ぎない。自分たちとて、世界の一部に過ぎないのだから。
それは真実、世界の命運と祈りを注ぐための聖杯だった。
「我が蒼炎よ! この天命を糧となし、聖別の器となりて神に償え!!
其は万民の命の祈り也! 天道を現す福音也!
あまねく人の想いの形となりて、顕れよ……!」
カナンは、はじめて言葉に詰まった。法術の名前まで考えが及んでいなかったのだ。だが、法術は名前をもって初めてその力を発揮する。人が名前無しに生きられないのと同様、法術もまた名無しのままでは力を振るえない。そこにある、ということにならないからだ。
一瞬、頭上で花開きつつあった聖杯が歪んだ。もしカナン一人であったなら、それはばらばらに解けて雲散霧消と化していただろう。
「
知覚さえ満足に働いているか分からない状況だが、カナンにはその声がはっきりと聞こえていた。そして何故そこに思い至らなかったのだろうと自分自身に対して驚いた。
名前など、一つしか無いではないか。
カナンは、そして彼女が自分の剣を見上げているのに気付いたイスラは、極めて自然に声を重ねて、全く同じ名前を呼ばわっていた。
「「
そして