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【第二四一節/遥かなる閃星】

 あるいはハザルとの戦いにおける最も強烈な攻撃は、この時イスラが見せられた数々の記憶であったかもしれない。


 それらは一人の人間が一つの脳髄で受け止めるには、あまりに膨大であった。そしてその一つ一つが、身を削るような痛みを伴っていた。


 イスラはまるで、自分の意識が深い谷間に放り投げられたかのように感じた。しかしいつまで経っても地面にはたどり着かず、宙に浮いたままひたすら猛烈な強風に揉まれ、何度となく断崖にその身をぶつける。その度に、自分のものではない記憶が流し込まれ、彼自身の自意識を押し潰そうとした。


 絶望の種類には際限が無かった。イスラは旧世界の終わりに起きた出来事を、限られた当事者の記憶を通じて目撃した。最早ハザルという集合体に統一した意思は無く、これでさえ攻撃だったかどうか判然としない。ただ彼らは、末期の絶叫を誰かに聞かせずにはいられなかったのだ。自分たちの味わった苦しみや悲しみが、誰の記憶にも残らずこの世界から消えていくという事態に恐怖した。


 ある記憶において、イスラは主君を喪った騎士だった。


 ある記憶においては、家族の肉を喰らった行商だった。


 そしてまた、ある記憶においては慰み者にされる少女だった。


 だが、イスラはそれらを「有り得ない事」とも「信じられないほどの悲惨」とも思わなかった。彼自身、そうした悲惨を目の当たりにして生きてきた人間なのだから。


 だからどれほどの苦悶の絶叫を聞かされようと、彼が自分自身を見失うということは無かった。耳元で悲鳴を聞かされるたびに、イスラは目の前に転がったイザークの死体を思い返した。猛獣に追い回され、高い樹の上で飢え渇きながら震えた時のことを。その他のいくつもの、思い出したくもない経験を思い出して、自分はそこ・・からやってきたのだと己に言い聞かせた。


 そして今、自分を引き留めてくれる人たちのことを浮かべて、亡者と一つにならないよう必死に自分自身を繋ぎ止めた。


 ハザルは最早、叫ぶ以上のことはしなかったし、出来なかった。


 やがて絶叫は残響のように遠ざかり、イスラは嘆きと記憶の断崖の底へと沈降していった。


 ある地点を境に、イスラは自分の周囲に雪が舞っていることに気付いた。彼は淡雪と同じ速度で地面へと向かい、そして真っ白な平原へ両足をつけた。


 見渡す限り何も無い。風さえも吹いていない。顔を上げると雲間に微かに星が見えた。だが、どれが星で、どれが雪なのか見分けがつかない。その中にあって、月だけは冗談のように煌々と光を放っている。金色の月光を跳ね返した雪が、川底の砂金のように淡く輝いていた。


 イスラは雪原の上に、鮮血が点々と続いているのを認めた。彼は何を考えるでもなくその痕を辿り、やがて少女の亡骸を抱えたまま地面に蹲る一人の男を見つけた。


 すでに命の温もりを失ったその少女を一目見た時、イスラはカナンの面影を見出さずにはいられなかった。



「……何故、私の祈りは届かないのだ」



 かつて賢者と呼ばれた男の呟きは、乾いた骨を転がしたかのように虚ろだった。だが、先ほどまでの狂気に満ちた声音ではない。人としての潤いを失い尽くしたからこそ出てくる、ある種の切実さが、逆説的ではあるが滲み出ていた。彼は一切を失うことで、初めて個体としての人格に立ち返っていたのだ。


 彼は冷え切った少女の前髪を指で梳き、雪を掃った。爪は罅割れ、凍傷で真っ黒に染まっている。もう満足に曲げることも出来ない。



「……あんたはずっと、ここにいたのか?」



 曲がった背中に向けてイスラは問うた。フィロスは身じろぎもしないがために、肩や頭に雪が積もっていた。


 現実の光景ではないと頭で理解していても、イスラは背骨が凍り付くような寒さを覚えた。弱々しい吐息の他には、風さえもろくに吹き寄せない。寒さと闇と沈黙とが、三重の檻となって彼らを捕らえ続けていた。



「義人の命はいつも儚い」



 フィロスは片手でソフィアの身体を抱き寄せ、もう片方の手で痛み切った小麦色の髪を掬い上げた。しかしそれは、指の間から零れ落ちていく。




「私のような者だけが、長々と無意味な生を享受し続ける。


 せめて……せめて、本来命を得るべき者たちに報いたかったというのに。


 幸福になる権利を持つ者たちが苛まれ、息絶えさせられ、生き残るのはいつも私のような卑怯者だけだ」




 少女の遺体を抱えたまま、フィロスは緩慢に振り返り、責め苛むかのようにイスラを見上げた。




「何故、私の天使を否定した?


 全ての人間は穢れている。穢れているから、世界までも汚し尽くしたのだ。


 ならばせめて、その罪から解き放たれた存在を創り、世界を受け継がせる。


 これの一体、どこがいけない?


 君は一体、何の大義を理由に私を否定したのだ?」




 見上げる視線というものは、時として強烈に人の心を揺らすものだ。ましてや他者を責める時など、より一層強く働きかける。


 だが、そもそもフィロスの責めは不当なものだ。イスラが良心の呵責を覚える必要は無い。


 それでも、彼はその場に片膝をついて、フィロスの虚ろな瞳と視線を合わせた。賢者だった男は、青年の美しい金色の瞳と、頬に走った醜い傷とが相合わさった容貌に、一瞬気圧されたようだった。




「俺は、自分が正しい人間だなんて思っちゃいない。世界中見渡せば、立派でも偉くもない人間で一杯だよ。


 けど、そんな不完全な連中が結びつき合って出来ているのが、世の中ってものだろ? その結びつきの全部が全部、悪いものなわけないだろうが。


 俺はその良い結びつきってやつに何度も助けられてきたし、俺に結びついてくれた大勢の……良者いいものも悪者も、否定して欲しくないんだ」




「……それはどこまでも、君の主観に過ぎない」




「ああ、そうだよ。俺は自分の見た範囲のことしか考えられない、頭の悪い人間だ。


 でも、俺を救ってくれた、この世の良いものは……確かに目の前にあったんだ。


 あんたは正しく清い天使を創るって言ったよな? でも、そのために今ある良いものを全て壊すことが正義なのか? それを壊してしまった時から、あんたらの天使だって正しいものじゃなくなってしまう……そう考えるのが筋だろ」




 イスラの言葉は、まさに正鵠を射ていた。ハザルの、そしてフィロスの主張は元より論理破綻を起こしている。一つの善行と一つの悪行はそれぞれ全く別のものであり、善を行ったから別の悪が赦されるということはないのだ。


 だから、彼らが過ちを犯さない人間を創ったとしても、そのためにまた別の悪を侵しているなら、新人類創造の大義も損なわれることになる。


 フィロスとて、心の奥底ではとうに気付いていたことだ。全く異なる種類の正義が、はたまた全く異なる種類の悪を補填することにはならない、と。だからこそ、最後は滅びて消えようと考えていた。


 ただ一つの正義を成して、それから滅びる。


 そのためだけに生きてきた。




「ならば……ならば私は、何のために生きてきたのだ。


 いや、何のために生まれて……」




 フィロスはソフィアを抱き寄せ、その上に身を屈めた。遥かな昔から、彼にはむくろとなってしまった少女との思い出しか寄る辺が無かったのだ。


 その丸まった背中に、イスラは自分でも気付かないうちに纏っていた、黒い外套を掛けた。


 記憶の牢獄の中で、はじめてフィロスとソフィアを雪から守ったものがそれだった。




「……あんたを責めたかったわけじゃないんだ。顔をあげてくれ」




 驚きのあまり、フィロスはイスラに促されるまでもなく顔を上げていた。彼の視線の先には、永遠の満月のような瞳が、おだやかな光を湛えて真っ直ぐに彼を見つめていた。




「あんたらに言いたいことは山ほどある。腹が立ったことも……オーディスを踏み躙ったことも、カナンを殴ったことも、刺したことも……あんたらが人間のままだったらぶん殴ってたよ。


 でも、あんたの祈りがあったから、カナンが俺の前に現れてくれたんだ。



 あんたがどう思おうと、カナンは俺にとって、正真正銘、本物の天使だったんだよ。



 あいつが現れなかったら、俺もあんたと同じになってた。あいつが俺を救ってくれるまで、俺もずっと、ここと同じような場所にいたんだ。だから……どうしても憎めない。


 ずっと暗闇の中で凍えてたあんたらを、俺は責められない……ましてや何百年も生きたんだろ? それは……そりゃあ、しんどくもなる。


 あんたらも俺らと同じだ。考え方が違おうと、この世界の中で理不尽さに向き合う限り、俺もあんたらも同じ闇渡りなんだよ。


 だから、どうか……あとは俺たちに任せてくれないか?」




 イスラの言葉が終わってから、再び沈黙があった。フィロスは信じられないものでも見たかのように固まっていたが、やがて何かを思い出したかのようにソフィアの顔を覗き込んだ。


 彼女の顔は、末期の言葉を言い切った時のままなのだった。


 そしてその最期の言葉を片時も忘れず、しかし意味を解せないまま生き続けてきたフィロスは、ようやく彼女の言わんとしていたことを理解した。




 ――――きっとまた、世界に光は戻ってくるよ。だって……。




 彼はもう一度、ソフィアの顔とイスラの顔を見比べ、そして雲間に覗く月を仰いだ。



「…………嗚呼、そうか……そういうことだったのか」



 降り注ぐ仄かな月光を、あたかもそれ以上の眩しさをもった光だと感ずるかのようにフィロスは目を細めた。そして今まで背負ってきた重荷の全てを下ろしたかのように大きく溜息をついた。



「あの時……世界に君のような者が五十人でも、二十人でも、十人でもいれば……我々とて絶望せずに済んだのに……いや」



 そうではない、とフィロスは思った。


 遥かなる天空の星々は、人間の基準では推し量ることも出来ないような時を経て、そこに輝いている。そして目に届く光でさえ、遥か昔に彼方から放たれたものである。そんな学説を、ずっと昔に聞いたことがあった。




「星の光は、遅れて届くものなのだな……」




 彼がそう呟いた瞬間、凍り付いた平原に光の亀裂が走り、二人を分断した。


 雪の牢獄は端から光に呑まれて崩れていく。同時に、イスラの立っている場所はゆっくりと浮上を始めた。


 フィロスはソフィアの遺体と共に取り残されたまま、全てを受容した表情で迫ってくる光の壁を見つめていた。


「おいっ!!」


 イスラは手を伸ばそうとした。だが、その手を背後から押し留められた。




「これは、の仕事だ」




 聞き慣れた声が響き、その影が自分を追い越してフィロスの傍らに降り立つのをイスラは見た。


 光が押し迫り、イスラを彼自身の意識の中へと回帰させた。




◇◇◇




 右目が見えない、と思ったのは、それがオーディスの左手によって塞がれていたからだ。


 その手の甲には、イスラの目を押し潰さんとしたハザルの枝が突き刺さっていた。



「オーディス……」



 イスラは呆然と呟いた。目の前に立っている男が、すでに事切れていることに気付いたからだ。


 死に絶えた彼の身体は、そこかしこを黒い炎によって苛まれていた。ハザルによる制御を失った以上、黒炎は最早彼の肉体を守ってはくれない。


 イスラは無意識のうちに一歩踏み出していた。右腕に潜り込んだ樹の根のことなど気にもならなかった。それに合わせて、今や物体と化したオーディスの身体も動き、仰向けに倒れそうになった。イスラは慌てて彼を抱きかかえたが、思った以上に力が入らず、その場に膝をついた。



「何で……ッ!」



 オーディスは微笑んでいた。


 だが、イスラにはその理由が分からなかった。


 何も言わないままに彼は逝ってしまった。




「何なんだよ!!」




 その微笑の理由を聞きたかった。


 それは安堵なのか、贖罪なのか。それとも全く別の理由なのか。彼は自分の中に何を見出したのだろう? 自分の問題にどう決着をつけたのだろう? 何故、旧い亡霊を連れて行く役目を担ったのだろう?


 もっと言いたいことがあった。意固地になって、教えて欲しいことも素直に聞けないままだった。



 どれほど妬み、そして憧れていたかも、告げることが出来なかった。



 だが、生と死の距離はあまりに遠い。


 腕の中にあったオーディスの身体が、黒い炎に包まれた。駆け寄ったカナンが呆然としたままのイスラを引き離す。その間も黒炎は彼の身体を覆い、気のせいかもしれないが一瞬白い光に変じた後、その肉体は跡形も無く消え去ってしまった。


 イスラは、エリコの街の外に組まれた篝火の前で、初めてオーディス・シャティオンと出会った時のことを思い出した。彼との間にあった様々な記憶が一瞬のうちに過ぎ去り、それからもっと昔の記憶へと彼を誘った。


 イスラの追憶は告げていた。


 この寂しさとやり切れなさは、父親イザークが死んだ時と似ているのだ、と。

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