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【第二四〇節/黎明の聖戦 五】

 オーディスの両腕、そしてハザルの歪な腕が、三方向に向かって広げられる。それぞれの腕を包むように、花弁のように広がっていた炎が巻き取られていく。


 三点に集められた炎を抱き込むように腕が動き、身体の正面で圧縮される。それは光そのものでありながら、同時に光さえも逃さない暗黒の洞穴のように、カナンには思えた。


 光、すなわち祈り。


 闇、すなわち絶望。


 その二つは遠いように見えて、実はほとんど変わらない位置にある。人知ではどうにもならない極点に至ってしまった時、人はそこに神を、光を、そして祈りを見出すのだ。


 だから彼らは切実だ。ハザルの存在は祈りと絶望という二つの言葉に集約出来る。その点だけはカナンも認めようと思う。


(だけど私たちは、それを叶えさせるわけにはいかない)


 祈りのために膝をつくわけにはいかない。そこを自分たちの居場所に定めてしまうわけにはいかない。


 どんなにこの世界に絶望しようとも、決してそこに樹となって根を張るわけにはいかないのだ。


 たとえ祈りへの報いを得られないとしても、この地上で旅人としてまた寄留者として歩き続けるしかないのだ。



(でも、それはきっと、悪いことばかりじゃない)



 カナンはちらりとイスラを見やった。彼と視線が重なった瞬間、そしてハザルの暗黒から灼熱の光が放たれた瞬間、彼女は突き立てられていた明星を引き抜き駆け出していた。


 熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブを正面に展開し、押し寄せる黒炎を真っ向から受け止める。その間もカナンは思考を回転し続けていた。


 あの時と同じだ、とカナンは思った。かつてベイベルと相対した時の決まり手もこれだった。


 黒炎の脅威は一切変わっていない。



 しかし一つだけ明確に有利な点がある。敵に物理的な弱点が存在するということだ。



 ずっと気になっていた。何故彼らがオーディスという依り代を必要としたのか。使える脳髄が限られている現状は、明確に彼らの能力を縛っていた。そうでなければ、もっと多種多様な魔法が飛び交っており、到底対応しきれなかっただろう。


 行動原理はともかく、彼らの行動そのものはどこまでも直線的で合理的だ。故に到達点や目標が読み易いという側面も持っている。この辺りはいかにも戦い慣れていない。当然だ、元々は学者や賢者だった連中なのだから。


 だから、自分でも思いつく様々な攻撃方法……例えば転移魔法で二人揃ってどこかに放り出す……と言った強引な戦術が採れないのは、演算能力が足りていなかったからだと結論付けるのが自然だ。万能の力を持つはずの彼らがやってこないということは、そのまま「出来ないこと」と理解して良いだろう。


 何故、そのような不自由な状況を受け容れているのか。答えは一つ、元に戻れないからに他ならない。


 あるいは時間を掛ければ、エデンの神殿に居た時のような姿に戻れるのかもしれない。だが、今すぐは無理なのだ。


 だからオーディスからハザルの本体を切除してしまえば、彼らはさらに演算に割くための能力を失うことになる。恐らく今でもギリギリの線なのだろう。



(とはいえ……!!)



 カナンの翼が毟り取られていく。炎の濁流は蒼炎の羽衣を容赦なく削り、削られた分だけカナンの歩みも遅くなる。ベイベルの時とてそうだった。この黒い天火は際限が無いだけに、単純に垂れ流すだけで十分過ぎるほどの脅威となる。


「だけど……あと、もうちょっと……!」



その位置・・・・にまでたどり着ければ!!)



「無駄だ」


 カナンの意地を挫くかの如く、ハザルは放射する天火を更に強めた。


 羽衣が撃ち抜かれる。一枚、二枚……最早カナンを護る物は、手元にある明星しかない。


「くっ……!」


 彼女の選択肢は一つのみだ。明星を盾代わりに、ハザルの攻撃を受け止める。


 しかしそれとて、全ての炎を吸収し切れるわけではない。仮に剣が持ちこたえたとしても肉体が先に限界を迎える。


 現に、一人で黒炎と対峙することになったカナンはその場に膝をついていた。剣の柄から伝わる熱が手の平を焼いているが、そもそも全身の肌が感じる苦痛に上書きされて、満足に感じ取れない。そのまま焼死体になるまでに何秒もかからないだろう。


 ハザルは勝利を確信した。彼らにとって最大の脅威はやはり人造天使だ。しかも、愚かなことに相手は戦力を一所ひとところに集め過ぎた。



 オレイカルコスの剣も、天火も持たないただの人間が、どうやって真の天使の攻撃を凌ぐというのか?




「……もう勝ったつもりですか!?」




 だが、カナンは死んではいなかった。オーディスの……ハザルの目が驚愕に見開かれる。


 彼女が生きていたからではない。




 彼女を焼くはずだった黒い天火……それを彼女が吸収していたからだ。




「何だと!?」



 そうとしか言いようがない。性質の悪いペテンにかけられた気分だった。


 真の天使の力は、魔導を極めた自分たちにとってすら危険なものだ。それは、黒い天火を持って生まれた真の天使そのものにとっても同じである。世界を丸ごと変えてしまえるような膨大な力の塊は、元より人間の器に収まりきるものではないのだ。



「分かりませんか!? 何故私に、こんなことが出来るのか!」



 カナンは声高に叫んだ。


 彼女にとっても一か八かの賭けだった。だが、明確な根拠があっての行動だ。


 ハザルはベイベルのことを真の天使と呼び、最終目標と定めていた。人造天使に継火手という別称を与え、人間の社会の中で支配者的地位に置くことで確実に世代交代が行われるように仕組み、突然変異主たるベイベルの出現を待ち続けた。



 では、何故自分のような色付きの天火が他に現れたのか?



 彼らの言う通り、真の天使の近似値であるだけかもしれない。だが、それならば天火の性質は全てベイベルに似るはずだ。


 何故、出力に特化した蒼炎のような天火が現れたのか。



(違う。そもそも、それが私の勘違いだったんだ)



 カナンの蒼い天火は、破壊の天火ではない。結果的にそう見えているだけで本質は全く別のところにある。



 ハザル彼ら自身が言ったことだ。力は必然的に責務を喚起する、と。



 そして力に求められる最も基本的な責務とは、それを制御すること・・・・・・・・・に他ならないではないか。



『例えば、書家が筆について知らないということはないでしょう。大工も道具箱の中に何が入っているか把握しています。武人もそれと同じで、まずは剣の重みや手触り、そしてその鋭さと脆さを知ることが何よりも肝要です』



 ふと、幼い頃にギデオンから言われた言葉が甦った。本当にその通りだったな、と思った。立派な道具を使うにしても、身の丈以上の大剣を振るうにしても、まずはそれを操るだけの力量が必要となる。


 天火も同じだ。蒼炎に破壊の力が宿っていたのではない。身を滅ぼすほどの力を制御し得たから、そう見えていただけなのだ。




「私の炎は、聖杯の天火!! いつか現れるであろう、破壊の業火を飲み干すための天火よ!!」




 ハザルは否定の言葉を口に出せなかった。現に目の前でカナンは黒炎を吸収し続けている。明星という媒介を用いてではあるが、自分たちの叩きつけた力がそのまま彼女の力に変換し続けられているのだ。



「馬鹿な……! 我々の計画の埒外にある進化だと!? そんなことが……!」



「当たり前よ! だってこれは、私たちの、継火手の血が望んだことなのよ!!


 いつか現れてくる力が世界を滅ぼしてしまうと、私たちの血はずっと昔から気付いていたんだわ! だから、それを抑えるための力が与えられたのよ!」



 それはカナンの願望に過ぎない。カナンとベイベルが同じ時代に生を受けたことも、単なる偶然なのかもしれない。しかしカナンは、創られた存在である人造天使の血脈が、運命に叛逆するための因子を世代を超えて育んできたのだと信じたかった。



(それが、私にこの蒼い炎が与えられた、意味だから)



 ハザルは困惑を禁じえなかった。同時にかつてないほどの苛立ちを覚える。何もかもが自分たちに逆らい、計画の邪魔をしようと立ち塞がる。


 その最たるものがカナンだ。万が一人造天使が叛逆を起こした時に備えて、いくつもの防衛策を張り巡らされていた。そもそもエデンまでやってくること自体想定外だったが、その上言葉を縛る術すら対応し、挙句の果てには究極の力と目していた黒炎にまで耐えて見せる。



「一体何なのだ貴様は!?」



 そんなことを問う造物主がいるものか、と毒づくほどの余裕は、カナンには無かった。吸収しているとはいえ、ベイベルの黒炎はこの世で最も危険な力だ。いくら蒼炎の本質が力の制御にあろうと、器そのものが際限なく拡大しているわけではない。しかし黒炎は無限に溢れ出すのだ。どちらが先に限界を迎えるかは明白だった。


 今でも身体の内側で、黒い炎が猛り狂っているのが分かる。全身の血管が、骨が、筋肉が、一斉に反乱を起こしたかのようだ。一つ一つの繊維が生き物となってのた打ち回っているかのように感じる。


 抑えきれなかった炎が肌を破り噴き出した。カナンの脳裡に、大坑窟でのベイベルの姿が浮かび上がる。このまま行けば、あれと同じことになる。言うなれば今のカナンは、ベイベルが感じていた恐怖と苦痛とをそのままその身に抱え込んでいるのだ。



(だから!)



 明星を正面に構えたまま、もう片方の手でカナンは空間に円を描く。吸収された黒い天火を銀色の天火へと変換し、人ひとりが通れるだけの転移門を作り出す。


 名前を呼ぶまでも無かった。背後で左腕の応急処置を済ませたイスラが、一切の迷い無く転移門へと駆け寄り、その中に飛び込んだ。どこに出るかはイスラにも分からない。


 ハザルは黒炎の放射を止めて月桂樹を手繰り寄せた。同時にカナンは地面に這いつくばって悶え苦しんだ。今まで毒というものに苦しめられたことは無いが、それはこのような症状を呈するのだろうか、などと埒も無いことを思った。


 しかしこれで、カナンは全ての手の内をさらけ出した。もう切れる手は何一つ残っていない。


 後はイスラを信じるしかない。


(狙いは……)


「っ、真上だと!?」


 鳥籠の天井付近。そこが、カナンが転移門の出現場所として選んだ座標だった。



「馬鹿が、鳥でもあるまいに!!」



 真上は確かに死角かもしれないが、当然ながら人間は自在に空を飛ぶことなど出来ない。既に梟の爪ヤンシュフは破壊されている。ただの自由落下など的でしかない。



「完璧だ、カナン」



 だが、イスラはほくそ笑んだ。


 一番送り込んで欲しい位置だった。


 真下には月桂樹が待ち構え、それだけでは足りぬとばかりに黒炎が対空砲火となって襲い掛かる。一瞬後に彼の姿は炎の中へと消えていた。


「愚か者めが」


 徒手空拳で空中に放り出されて、一体何をするつもりだったのか。何の考えも無しにやったのだとすれば、イスラを殺したのはむしろカナンと言える。それほどまでに愚かしい行為に思えた。


 目の前で、蒼い炎が揺らめくまでは。


 イスラがそこにいた。



「!?」



 咄嗟に月桂樹を振るえたのは、オーディスの肉体に刻み込まれた、戦士としての本能故であろう。


 しかし、長剣の金色の刃が届くよりも、イスラの伐剣が右肘を斬り飛ばす方が早かった。信じ難いほどの速度であり、その速さの前ではいかなる技術も意味を為さない。


 蒼い炎を纏ったその斬撃を目にした瞬間、ハザルは連鎖的に何が起こったのかを理解した。


 そもそもの始めは、カナンの熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブ二枚しか・・・・無かったこと。黒炎を掌握した時点でも、彼女の手元にはまだ三枚の羽衣が残っていた。


 その残った一枚分がどこに行ったか。転移門ではない。あれは自分たちの使った黒炎を吸収して生成したものだ。


 元より彼女の目的は、防御でも突破でもない。



 今、イスラの手に握られている伐剣……聖銀と鉄の混血児ヒュブリスを回収するためだ。



 そこに流し込まれた蒼炎を、イスラは最大限に活用した。今の超高速の斬撃も、空中で黒炎を回避したのも、それを推進剤として転用したからこそ可能だったのだ。



「っ、駄目だ!! 駄目だ駄目だ!! それだけはいかん、それだけは!!」



 第三の腕に黒い炎が集中し、焼き鏝を当てるかのように真上から襲い掛かる。



「我々は、我々は私は、負ける、わけには…………!」



 しかしそれは最早、最後の悪あがきに過ぎない。


「すまない」


 混血児を投げ捨て、地面に突き立っていたもう一振りの剣を手にする。


 月桂樹は諸刃の剣。片方は明星との打ち合いで痛み切っている。しかし、もう片面は依然鋭さを保っていた。


 振り下ろされた腕を受け止め、受け流し、弧を描くように斬り上げる。


 その一連の動作はあまりに流麗でありかつ美しく、ハザルはしばし、それが自分たちに死をもたらした一撃であると認識出来ないほどであり、そして斬り飛ばされた後も、自分たちが依り代から分かたれたことに気付かなかった。




 かくして、エデンの知恵の樹は伐り倒されたのだ。




 認識が、知識が、知恵が、言語が、記憶が、急速に失われていく。


 常人では決して知り得ない喪失感に苛まれ、彼らはようやく死を認識した。


 元よりカナンの攻撃で瀕死の状態にあった彼らは、依り代を失ったことで完全に止めを刺された。最早集合人格を維持することさえ出来ない。エデンの樹は宙を舞ったまま、端から枯れ木となって朽ちていく。今となってはどのような魔法も使えない。


 だが、最後に残ったのは、彼らを数百年に渡って生き永らえさせてきた原動力……すなわち執念だった。



 執念は、滅びかけた彼らに最後の力を与えた。



 イスラの右腕に、エデンの樹の残滓が絡みつく。それは皮膚を突き破って肉の中を奔り、首を越えて眼球にまで至った。


 全身の細胞が危機感を訴え、イスラの口から苦悶の声となって溢れ出た。


 彼の脳内に、彼のものでない記憶が注ぎ込まれた。

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