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【第二四〇節/黎明の聖戦 四】

 黒い天火が鳥籠の内部を満たした。同時に胎動のような揺れが始まり、床から染み出す赤黒い液体は一層その嵩を増していく。


 カナンはイスラを抱きとめたまま、その経血のような液が膝頭を浸すに任せた。


 泡立つ血溜まりから次々と鳥の脚のような物体が生え出てくる。一本の幹から、枝のように別々の脚が飛び出ており、あたかも樹木のようにも見えた。カナンにはそれが、イスラと共に歩いた瘴土の中に生えていた物と似ているような気がしてならなかった。



「……なぜ、自分たちの絶望ばかりを言い立てるのです?」



 真っ赤に染まったイスラの身体に天火をかざしながら、カナンは無駄と悟りつつもも問わざるを得なかった。


 イスラの身体は、鳥籠の分泌する液体と、彼自身の血で染め上げられている。だが、今まで彼が流してきた血の量は、こんなものではない。


 どれほど遠くに来ようと、どれほど長い時を過ごそうと、きっと自分はリダの町であったことを忘れられないだろう。


 あの時の彼の諦観に満ちた表情と、渦巻く憎悪とを、きっと死ぬまで記憶に留めるだろう。



「この人がどれだけ苦しんだか……それを考えもしないで……!」



 やはり自分は、どうしてもハザルを……あの旧世界の良識派を自称する人々を、好きになれそうにない。


 カナンは悔しかった。自分が愛した人を蔑ろにされることは、自分自身を傷つけられるよりもずっと許し難い。その怒りに比べれば、彼らが人造天使として継火手を創造した事実も、鼻先で笑い飛ばせるような些事に思えた。


 そんな彼女の憤りも、彼女自身が予想していた通り、寸分もハザルには届かなかった。



「苦しんだのだろう? ならば我々の考えを支持すれば良い。


 世界がこのまま続けば、その男が出会った苦しみとやらも永遠に再生産を繰り返すだけだ。


 認めよ。絶対的な解決こそが、救済に至る唯一の道なのだ」



 思わず肩から力が抜けそうになった。「……何が我々、よ」とカナンは毒づいた。



「お前たちは……いえ、お前・・がどういうものなのか、ようやく分かった。


 いくつもの心が集まって出来ているはずなのに、一つの考え方と憎しみに凝り固まっている。


 偏見と傲慢さを煮詰めるばかりで、外の世界のことなんて何も知ろうともしない、怠け者だ!!」



「造り物風情が。我々を愚弄するか」



「何が賢者よ! 何が良識派よ!! お前のどこにそんな……!」



 吐き出しかけた言葉は、下からよろよろと伸ばされた手によって遮られた。


「そこまでだ、カナン」


 イスラ、とカナンが口に出す前に、彼は少々ふらつきながらも上体を起こした。ずたずたにされた左腕は、天火の応急処置があっても未だ垂れ下がったままだった。



「俺はこいつらに同情してもらおうとは思わない……別に誰にも、自分の苦労話も恨み節も、聞かせたくはない」



 ずぶ濡れになった外套を引き剥がし、地面に突き立てた明星を頼りに立ち上がる。改めて見てみると、あの野蛮さと美しさの相備わった刃は散々に痛み切っていた。そりゃ斬れないわけだ、とイスラは思った。



「俺は……俺はどうせなら、そこから俺を救い出してくれたものについて喋りたい」



 だが、イスラは少しも悲観していなかった。そんなことは彼の意識にのぼらなかった。


 いつだってこうだった。


 自分たちの敵はいつも強大で、何度となく打ちのめされ、痛めつけられてきた。思いがけない難局や、絶体絶命の窮地など、幾度となく味わってきたではないか。


 そしてその度に思い出すのだ。


 彼女のあの言葉を。




 ————諦めるな、イスラ!




 イスラは笑みを浮かべた。


「何がおかしい。気でも触れたか」


「いや……ただ、希望ってのは厄介なものだなって、そう思っただけだよ」


 希望という言葉は、その美しさの裏側に、残酷さが影のように張り付いている。


 それは天高く輝く星であって、どれほど手を伸ばしても届かず、ただそこに在り続けるだけだ。だが、時として流星になり、地上に降ってくることもある。その奇跡という名の星を手に出来るのは、ほんの一握りの人間だけだ。


 自分はその幸運な一人だったのだろう、とイスラは思う。




「曖昧なものだよな。偶然って言われたらそれまでだ。


 だけど、カナンが俺を救ってくれたってことは、絶対に消すことの出来ない事実だ」




 自分ではなかったかもしれない。別の誰かが彼女と出会い、旅にでて、愛し合っていたかもしれない。


 しかしそうではない。あの奇跡は正真正銘自分だけのものだ。


 そしてそこから奇跡の輪は広がり、救われないはずだった多くの者を救うに至った。


 その最初の出会いを、出来事を、言葉を、自分はきっと死ぬまで忘れないだろう。




「カナンが俺に見せてくれた希望が、今も俺を繋ぎ止めてくれている。


 今、この場所にまで連れて来てくれた。ここに立たせてくれている。


 あんたらの言う救済なんて必要無い。俺はもう……とっくに救われているんだからな」




 そう言って、イスラは顔を上げた。この場に不釣り合いなほどの晴れ晴れとした表情を浮かべて。激痛や熱による脱水で常に責め苛まれているにも関わらず、両の脚は少しも揺らぐことがなかった。


 明確な拒絶の言葉だったが、彼の顔には嘲るでも挑発するでもない、どこまでも澄み切った感情が宿っていた。


 元よりイスラには、敵を言い負かそうという意地など微塵も無かった。彼はただ、己自身の想いを述べただけだ。自分の拠り所とするところのものを明かしたに過ぎない。


 しかし、その想いが純粋で堅固であるだけに、ハザルにとってはとことん理解不能なものと捉えられた。絶望で凝り固まった彼らにすれば、出来損ないの人造天使が一人の孤独な青年を救ったことなど、成果として考えられなかったのである。


 その偏見は黒い炎となって猛り狂った。最早その火勢は、かつてベイベルが使役していたものと全く同質なまでに至っていた。



「何が希望だ。そこにいる変異種が現れた事実自体が、世界が変わらなかった何よりの証だ」



 熱波が吹き寄せ、恫喝するかのようにイスラの髪を揺らした。カナンもまた、残った三枚の翼を広げて敵に対峙しようとする。ハザルの危険度は高まり続けている。今更言葉によって相互理解が図れるとも思えない。


 しかしイスラは、逆巻く大海のような炎の波を前にしても、明星すらその手に握らず真っ直ぐにハザルを見つめていた。


 その代わりに、声を張り上げた。




「確かに世界は、あんたらの望んだようには変わらなかったかもしれない。


 でも、カナンは俺を変えてくれた。


 俺たちはそうして旅を続けて、変わらなかったはずのものを変えてきた。


 そして俺たちも、何度も変えられ続けてきたんだ」




 その時イスラの脳裡には、これまで出会った多くの人々の顔がいくつも浮かび上がっていた。


 自分を愛してくれた人たちを、慕ってくれた人たちのことを。彼らが分け与えてくれた愛情や親愛が、どれほど自分とカナンを救ってくれたことだろう。大それたことではない、単なる馬鹿話や酒を酌み交わす程度のことが、実はどれだけ自分に生きる実感を与えてくれたことだろう。あの風読みの少年の視線が、どれほど自分の背中を真っ直ぐにしてくれたことだろう。


 あるいは憎しみや激情が、どれほど自分たちを揺り動かしたことだろう。決して愉快なことばかりではなかった。カナンにとって消えない傷となった出来事もあった。はかりごとに巻き込まれたことも、無根拠な憎悪を向けられたことも、数知れない。自分一人だけだった時はなおさらだ。父親と思っていた男が刃に倒れ、母親が自ら敵の戦利品になった記憶が、幾夜にもわたって脳髄を焼いた。


 そして憧れが、どれだけ自分を突き動かしてくれたことだろう。


 エルシャの剣匠のあの強さが。


 闇渡りの王の不敵さが。


(そして……)


 今ならば、さっき明確に言えなかったことを、多少はマシな形で言えるだろう。イスラはそう思った。




「……人は世界の一部で、人と人の関わり合う繋がりの中から、また新しい世界が生まれてくるんだ。


 人か世界か、じゃない。


 どっちも取らないと意味が無いんだ」




 イスラには観念論的な世界観など理解出来ない。しかし自分たちの敵がむしろ、世界の観念のために懊悩しているということは分かる。


 だが、実物に触れず、頭の中で組み立てたものだけを云々するのは間違っているとイスラは思う。


 すぐ目の前の世界に手を伸ばせば、そこには確かな手触りがある。語り掛ける相手が、触れ合える誰かがいる限り、世界はいつも自分たちに向かって開かれている。



 人は人にとって喜びなのだから。



 傍らに立ったカナンは、そっとイスラの左腕に自らの手を重ねた。




「私はイスラを救い、そして今までずっと救われ続けてきました。私だけじゃない、もっと大勢の人たちが。


 人が人である限り、世界も歴史も、そして人そのものも変わり続けていくはずです。


 いつかきっと、私たちのような仕組まれた天使など必要としない、そんなに、人はたどり着ける……そう信じたいのです」




 イスラを見ていると、いつもカナンは思う。人はどれほど過酷な状況下に置かれようと、必ず理性の欠片を残す生き物なのだと。


 無論、弱みの方が多い生き物であるかもしれない。それに関しては、自分とてそうだ。赤子でもない限り、この世に負い目の無い人間などありはしない。


 この戦いに勝ったとして……自分の図が当たり、世界を救うことが出来たとして、そこから続く長い歴史の中でも人は過ちを繰り返すだろう。



 それでも、闇を渡り続けるのだ。



 黎明を目指すために。




「そんななど来はしない。あるのは破滅のみ。ただ我らの望む世界だけが絶対なのだ。


 虫図が走る。そんな甘い繰言が実現しなかったから、貴様たちはそこにいるのだ」




 ハザルの考えは、変わらない。


「長広舌御苦労。最早貴様らの力は我々に届かない」


 見よ、と掲げられたオーディスの左手が再生する。それに呼応するかのように、周囲を黒炎の波があたかも花弁のように広がった。炎はオーディスの手の動きに従って自在に姿を変化させる。


 かつてベイベルが恐れ、忌み嫌った黒い天火は、完全にハザルの手中に落ちた。


 最早、ギデオンだのサウルだのと技術を弄する必要は微塵も無い。ただひたすらに、この無尽蔵の天火を叩きつけるだけで敵対者は沈黙する。



 勝敗は決した、とハザルは考えた。



「……カナン、俺は最後の札を切る。お前はどうだ?」


「私も、あと一手だけ残しています」


「決まりだな」


「はい」


 それが最後の作戦会議だった。


 詳細を詰める時間は無い。お互いの行動から次の一手を予測し、即座に反応しなければならない。


 だが、お互いに切り札を残しているという認識は、二人に勇気を与えた。


 イスラは左手に軽く力を込めた。激痛が走る。剣を握る力も無い。しかし動かすことは出来る。それさえ確認出来れば十分だ。



「行くぞ。これが最後の突撃だ」

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