さっきまで茜色に染まっていた空が、次第に深い夕闇に包まれていく。今いる和室は応接間だろうか。明治時代を彷彿とさせるアンティーク調の家具が並び、長年使い込まれた風合いを醸し出している。そんな和室の隅に置かれた小さなソファーに、私と財前は静かに肩を並べて座っていた。わずかに開いた襖から、少しひんやりとした夜風がささやくように吹き抜け、心地よい涼しさを運んでくる。
私は心の中で言葉を探しながら、少ししどろもどろになりつつも、どうにか花丸と自分の状況を伝えようとした。突拍子もない話で驚かれるかと思ったが、財前の反応は意外にも冷静なもので、話がひと段落すると彼は納得したように頷き、静かに口を開いた。
「そういうことか。色々、謎が解けたぜ」
話が終わると、財前は和服の袂から黒い革製のパスケースを取り出し、中の写真をじっと見つめた。写真には花丸そっくりの男性が、スポットライトの中でマジシャンのような衣装に身を包み、誇らしげに微笑んでいる。
「その人は…?」
「花丸耕太だよ。こっちの世界のな。売れてたわけじゃねえが、マジシャンだった」
財前は、写真から目を逸らさず、呟くように寂しげに答えた。
「こいつは俺の幼馴染でよ、カタギなのに俺とも分け隔てなく接してくれる、気のいい奴だった。お前の話じゃ、こっちの世界とお前の世界は『対』になってるんだろ。つまり、こっちの世界に存在する人間はお前の世界にもいる。この写真の耕太の『対』が、あの耕太ってわけか」
そうだった。こっちの世界に来た日の夜、焔さんがこう言ってたっけ。
──君の世界に存在するものは、この世界でも基本的に存在している。
ただ、いわゆる「もうひとりの私」はこっちの世界にはいないみたいだけど。
「あいつと初めて会った時、おったまげたぜ。顔もそっくりで同姓同名なんて普通あり得ねえ。俺の知っている耕太が化けて出たんじゃねえかってな」
財前は軽快な口調で笑みを浮かべていたが、私はこの言葉に潜む影を感じ取っていた。
「化けて出た?それって…」
「…こっちの花丸耕太は死んだ。つい最近、交通事故でな」
衝撃的な告白に胸を締め付けられ、私は言葉を失った。
「こっちの耕太はマジシャンだったが、あっちの耕太は医者を目指してたんだな。言われてみりゃあ、高校くれえの時、進路のことで悩んでたっけな、あいつ」
財前は天井を見ながら、懐かしそうに微笑んだ。だが、その笑顔は静かに消え、彼の表情は再び悲しげな影を
「四十九日の帰りだった。あの夜、まるで運命みたいにあいつが現れたんだ。マジでたまげたぜ、本当に…。だが、どうも様子がおかしかった。金も持ってねえし、名前以外はほとんど何も喋ろうとしねえ」
話を聞きながら色んな思いが交差しつつも、私は頷くしかなかった。そうだったのか…ってあれ?
「花丸さんが研修医だってこと、本人から聞いたんじゃないんですか?」
「あ?ああ」
財前はぶっきらぼうに頷き、面倒くさそうにこう続けた。
「色々聞くの面倒くせえから、耕太が風呂入ってる隙に、リュックをちょっくら調べさせてもらった」
「え!勝手に!?人のリュックを!?」
私は思わず声を張り上げる。財前はそんな私を呆れたように一瞥する。
「しょうがねえだろ。俺はな、一度気になったことはトコトン調べねえと夜も眠れねえタイプなんだよ。とにかく、リュックを調べたら色々出てきたぜ」
「出てきた?」
「どっかの病院の身分証やら遺書とか、な。死ぬ気だったんだな。あいつ」
「遺書…」
やっぱり…。そう思いながらも「遺書」という言葉に胸がざわつく。
「で?お前と一緒に元の世界に連れて帰ろうと思って、迎えに来たわけか」
私は静かに頷く。
「耕太は何て?」
「帰らないって言ってました。でも、本当は迷ってて、医者になる夢を諦めきれてないんじゃないかって…そう感じました」
私は自分の考えを正直に話した。すると、財前は大きく息を吐き、納得したような面持ちでこう言った。
「『夢を諦めきれない』か。いい線いってるかもしれねえな、凪」
「え?」
財前は座りながら、両肘を膝に乗せて手を組み、冷静な眼差しで前方をじっと見つめている。
「実はな、リュックの中には診断書が入ってたんだ」
「診断書?」
「書かれていた病名は…『心因性視覚障害』だ」
「しん…?え?何なんですか?」
「ストレスが原因で起こる視覚障害だ。目そのものには病気がねえのに、視野が狭くなったり、ぼやけて見えにくくなるらしい」
初めて聞く病名に、私は驚いていた。ストレスで目が見えなくなるなんて。
「その心因性視覚障害はな、特定の状況で起こることもあるらしい。例えば…」
「例えば?」
「仕事中、とかな」
私はハッとした。花丸が外科の研修医として働いていた最中にこの症状が起きていたら。そしてそれがずっと続いていたとしたら。彼は医師の道が閉ざされたと思ったかもしれない。
そんな考えが巡る中、財前は自らの左手の甲をおもむろに私に見せた。鋭い刃物で切り付けられたような、痛々しい傷跡が浮かんでいる。そして、それは今も赤く腫れあがっていた。
「三日前、別の組とひと
財前は手の甲を和服の袖で隠し、こう続ける。
「この傷を見た途端、耕太が『診させてください』ってすっ飛んで来てな。だが、言葉とは裏腹に傷を見た途端、あいつ汗かいて震えだしてよ。頭をブンブン振り始めるは、目を細めて泣きそうになるは…。どっちが患者なのか、マジでわかんなかったぜ。医者を目指してはいるけど、体が言うことを聞かねえ。それに耐えかねて人生投げ出したくなったのかもな」
話を聞きながら、私は自分の呼吸が少し震えるのを感じた。花丸はこの心因性視覚障害にどれほど苦しめられてきたのだろうか。
「まあ、戻るかどうかはあいつが決めることだし、俺は口を出すほど野暮じゃねえ。ただ、できることがねえか、ちょっくら考えてみたわけよ」
そう言いながら、財前は袂から小さな白い袋を取り、私に差し出す。袋を開けて中を確認すると目薬が入っていた。
「俺が渡すと気を遣わせるかもしんねえ。凪、お前が渡してくれねえか。『どんな目でも治る万能薬』って言ってよ」
財前は真剣な表情で私を見つめる。その真っすぐな眼差しに応えるように、私も力強く頷き、手にした袋をぎゅっと握る。
「そんなに効くんですね。きっと花丸さんも喜ぶと思います」
「あ?何言ってんだ?」
財前が
「え?だってさっき万能薬って…」
「言っとくが、万能薬っていうのは今考えた俺様のお茶目なジョーク。中身は至って普通の市販の目薬だ。三百円のな」
財前の思わぬひと言に、私は上半身をがくりと倒す。
「じゃあ、この目薬、本当は効かないんじゃないですか!」
「アホ!こういうのはな、要は気の持ちようなんだよ。俺が知ってるこっちの耕太も真面目で騙されやすい性格してたから、あっちの耕太にも効果あるかもしんねえだろ」
財前の言葉に思わず押し黙る私。言ってることはめちゃくちゃなのに、説得力があるのが不思議でならない。
「任せたぜ。しっかり嘘つけよ」
そう言いながら財前は立ち上がり、軽く手を振りながら背を向けた。立ち去ろうとする財前を、私は慌てて引き留める。
「あ、あの!」
「あん?」
財前は少し眉をひそめながら振り向いた。私も、この人にしか聞けないことがある。深く息を吸い、意を決して財前を見つめた。