それから十五分後、私たちは周囲を警戒しながら裏庭に向かって歩みを進めていた。先頭は財前。その後に花丸、私、ヤトと続く。
今夜はかなり風が強く、木々のざわめきが叫びのように聞こえる。風が足音を掻き消してくれるのは利点だが、木々がざわつくたび、風が強く吹き荒れるたび、不吉な予感が容赦なく押し寄せ、私は度々振り返っていた。
すると、今度はどこからともなく不気味なか細いうめき声が聞こえてきた。誰かがいる。財前も気配を察したのだろう。足を止め、周囲を見渡している。それから数秒後、花丸も異変に気付いたのか、顔を引きつらせる。
私は竹刀袋にゆっくりと手を伸ばし、呼吸を整えた。武器を持っているのは、私と財前。彼も日本刀を腰に携えてはいるが、左手を怪我していて万全の状態とはいえないだろう。
もし敵が襲ってきたら、私がみんなを守らなきゃ…。
そう思った矢先、不気味なうめき声が今度はハッキリと聞こえた。
いや、ちょっと待って。これはうめき声というより…。
──ヴヴ~♪ルルルン♪ルン♪
こ、この声は…!?
「ヤト!?」
私は肩に乗ったヤトを見る。ヤトは得意げな表情で目を閉じながらハミングしている。不気味なうめき声と思っていたのは、ヤトのハミングだったのだ。
「──って!てめえかよ!カラス!さっきから、どことなく聞こえてくるこの不気味なうめき声はよォ!」
思わず突っ込む財前。余程気を張っていたのか、うめき声の正体がヤトのハミングと知り上半身をがくりと倒す。花丸も気が抜けたようにその場に座り込み、深く息を吐く。
「なんだよ!失礼な!俺は不安がってる凪を笑顔にしようとハミングを…!」
「何がハミングだ!どこのこっくりさんかと思ったぜ!」
財前のツッコミに思わず吹き出す私。すると花丸も、そして財前も私につられて表情が緩む。張り詰めた空気が途端に和らいでいった。
「良かったあ。やっと凪が笑った」
私は少し驚いてヤトを見る。ヤトは満足そうな表情を浮かべ、羽をピッと私に向けてこう続けた。
「『戦場に赴く者は不動の気持ちで構えるべし。穏やかに、そして強くあれ!』」
普段の口調とは違う言い回しに、私はドキリとした。これは…?
「これ、母さまの教えなんだ!戦場で不安になり過ぎたり、焦っちゃうと良くないよって話。俺、いつも後先考えずに突っ走っちゃうから、余裕がない時はこの言葉を思い出すようにしてるんだ!緊張した時こそ、穏やかに!リラックス、リラックスってね」
私の目の前でヤトが翼をバタバタとさせる。ヤトは、私の不安を感じ取っていたのか。
「これ、焔にもよく歌ってるんだよ。最近は丸くなったけど、前の焔なんて任務の度に殺気立って大変だったから、リラックスさせるためにね」
「…気い張ってる時にあんなこっくりさんが登場したら、あいつ問答無用で斬り付けてきそうだけどな」
苦笑いしながら言う財前。彼はヤトの歌声を「こっくりさん」と名付けたらしい。
「焔はそんなことしないやい!この歌を歌うと、焔はいつも大爆笑さ」
「ば、爆笑!?」
「あの堅物が!?」
「本当に!?」
あのクールな焔さんが爆笑…?想像もできない…。
「特に初めて歌った時は本当に喜んでくれて嬉しかったなあ。一生忘れないよ」
「マジかよ、焔…」
「ねえ、焔さんは何て言ってたの?」
「えっとね…」
──ヤト、ありがとう。救われた。
「…って!目に涙を浮かべて、お腹を抱えながらね!」
ドヤ顔で言い放つヤト。なんとなく、焔の気持ちがわかる気がする。きっと彼はこれまで何度もヤトの無邪気さに救われてきたんだろう。今の私たちと同じように。
「…なんとなくわかったぜ。あの堅物が、どうしてお前をずっと傍に置いているのか」
財前が少し感慨深げにヤトを見やる。
「随分信頼されてるんだな」
「当然さ。俺だってそうだもん!焔なら大丈夫。何度も言ってるけど、強いもん!紅牙組の人たちも、焔がいるなら絶対大丈夫さ!」
羽を大きく広げながら、自信たっぷりに宣言するヤト。財前も、先ほどまでの張り詰めた顔から、少しずついつもの調子を取り戻していた。花丸も、苦しそうな表情から一転、いつもの穏やさが戻っている。
「…それはそうと、行くぞ。敵がこの近くにいるかもしれねえ」
「大丈夫!近くにはいないよ。少なくとも、裏庭周辺にはね」
私たちは驚いて足を止める。
「なんでわかるんだ?」
ヤトは得意げな笑みを浮かべる。
「ふっふっふ」
微笑むヤトを見て、私はその瞳がキラリと光ったような気がした。
「もしかしてヤトって…。もの凄く目がいい、とか?」
一瞬驚いた表情を浮かべるヤト。そしてすぐさま誇らしげに胸を張る。
「実はそうなんだ!カラスの視力は人間の三倍!それだけじゃない。五キロ先まで見渡せるんだ」
「三倍!?」
「五キロ!?」
「マジかよ!」
ヤトの告白に、私と花丸、財前は思わず
「さっき飛んだ時に確認したんだ!今、俺たちの周りには敵はいない。だから大丈夫だよ」
「凄い!ヤト!」
私は思わずヤトを抱きしめた。ヤトはさらに照れくさそうに顔を赤らめる。
「たまげたぜ、カラス。お前、なかなかやるじゃねえか」
財前も感心した様子でヤトを褒める。風は相変わらず荒々しく吹き荒れ、木々をざわつかせていたが、なんとなく先ほどとは違った光景が広がっている気がした。