歩き続けていた財前がふと足を止め、前方の一点を指差して告げる。
「着いたぜ」
財前は伸びきった雑草を軽くのけて、隠れていた穴を私たちに見せる。そこには、大人一人がギリギリ通れそうな穴がぽっかりと開いていた。
「お前らなら十分通れるだろう。ここから行け」
「財前さん…」
花丸が申し訳なさそうに財前を見る。財前は少しばつの悪そうな顔で頭をポリポリと搔き口を開いた。
「その…。さっきは悪かったな。言い過ぎた。お前に言いたいことは、たったひとつ」
財前は花丸の両肩をガシッと掴んで、真剣な眼差しを向ける。
「元気でな。ちゃんと飯食えよ。まあ、また近くに来たら遊びに来いや。お前真面目だからよ、あんま思いつめんじゃねえぞ。それに、目薬も忘れずに点せ。わかったか」
花丸は一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、少ししてから深く頷いた。財前が「ひとつ」といいながらたんまりと気遣いの言葉を言ったのが少し微笑ましかった。きっと、本当はもっとゆっくり話したかったんだろう。
無事に逃げられたら、連絡しなきゃ。
「じゃあな。短い間だったけど、なかなか楽しかったぜ」
私の胸にも名残惜しさが広がる。この人とは色々あったけど、こんな形で別れるのが悲しいなんて、それがちょっと悔しい。
「おめえまでそんな辛気臭え顔すんじゃねえって。生きてりゃまた会えんだからよ」
財前が冗談めかして笑う。その言葉に、少し肩の力が抜けた気がした。私は彼に向き直る。
「しっかりな、凪。耕太のこと頼んだぜ」
「はい!」
財前は微笑みながら軽く手を振り、風に背中を押されるようにその場を去っていった。私たちはしばらくその背中を見つめていたが、突然強い風が周囲に吹き荒れ、体を震わせる。今夜は雨予報なのだろうか。風は少し湿り始めていて、雨の気配がする。
「あのさ…」
不意に花丸が口を開いた。
「どうして財前さん、僕が凪ちゃんから目薬貰ったこと知ってたんだろう?」
ギクリ。私はつい瞬きが多くなる。
「さあ…。渡すところを見ていた、とか?」
「そういえば、点しました?目薬」
私の問いかけに花丸は笑顔を向ける。
「うん。スース―して効きそうな感じ!さすがSPTの人たちが開発した秘伝の目薬だね。…やっぱり目は大事だからね。助かるよ」
よし。ちゃんと点してくれた。
財前さん、私まんまと騙してやりましたよ。
そう小さくガッツポーズをしながら心の中で呟く私。少しでも効果があればいいな。
「花丸さん!行きましょう。お先にどうぞ!」
私は穴を塞ぐ雑草を手でかき分ける。ちょっと窮屈そうだが、細身の花丸なら問題ないだろう。花丸はしゃがみ込み、両手を地面につけて慎重に頭から穴に入っていく。
「大丈夫ですか?」
「うん!ちょっと大きい石があるけど、通れそうだよ」
穴から花丸の声が響く。すると、ポツポツと雨が降り始めた。一分も経たないうちに、空気が湿気を帯び、雑草と土のにおいが周囲に立ち込める。次第にSPTの制服が濡れて、雨が体にまとわりついてくる。傘を持たない私たちは、このままきっとずぶ濡れだ。
穴を出たら急いで電車に乗ってSPTに向かわきゃ。
焔さんはヤトの言う通り、きっと大丈夫。信じよう。
そんな思いがよぎった途端、突風が吹き、雨粒が勢いよく顔に当たる。思わず目を閉じ、手で顔を覆った。風が少し収まり、ふと空を見上げると、そこには何か黒い影のようなものが舞っていた。
葉っぱかな?
そう一瞬思った。が、違う。その影は、風にただ舞っているのではなく、まるで狙いを定めたかのように、一直線にこちらに向かっていた。そして、キラリと光る何か鋭いものを携えているのが見えた。
私は目を見開き、花丸のズボンのポケットを思いきり掴んで引っ張った。
「え!?う、うわあああ!?」
花丸が驚きの声を上げた次の瞬間、影は猛烈なスピードで穴の入口に突っ込む。
──ドスン!
耳を塞ぎたくなるほどの衝撃音。湿ったはずの土が宙を舞う。辺りは瞬く間に
間一髪。少しでも遅れていたら、花丸が斬られていた。安堵すると同時に、冷や汗が背中を伝う。ちらりと花丸を見ると、引っ張った勢いで彼のズボンがずり下がり、半ケツ状態になっていた。花丸は照れくさそうに私を見るが、影に気付いた途端、一気に青ざめる。
一方、私は息を整えながら、土埃の中でうごめく影の正体を見極めようと目を凝らす。ヤトも同様に、くちばしをしっかりと閉じ、警戒心を露わにした。
「それ」は黒い布を被り、「人」のような形をしていた。しかし、その姿は人間離れしていた。獣のように尖った歯がむき出しになり、爪は異様に長く、鋭い光を放っている。姿勢も二足歩行というよりは、四足歩行のように前かがみになり、手には小刀を携えていた。
「あ…あれは一体…」
状況が飲み込めず、震える声で呟く花丸。私は素早く竹刀袋から竹刀を取り、振り返らずに言い放つ。
「敵です!花丸さん、下がっていてください!」
「そんなバカな…!裏庭から市街に続く道は、確かに誰もいなかったはずだ!」
ヤトの言う通りだ。さっきまでは気配がなかった。それなのに、この影はどこから来た?まるで闇の中から突如として姿を現したかのようだ。
土埃が完全に晴れるのと同時に、影の風貌が露わになる。私は息を呑んだ。目の前にいたのは、私が「対の世界」に来たその日に襲撃してきたあの小男、塚田亮だった。間違いない。あの時と同じ狂気じみた眼光をしている。
「…つけた…。ユキ…ラ…」
一層強くなってきた風のせいでうまく聞き取れないが、かすかに名前を呼ばれた気がした。だが、待てよ。今回、ミレニアの狙いは紅牙組のはず。それに、この任務は長官直々のものだ。私たちが横浜にいることは、長官しか知らないはずなのに…。だが、考えを巡らせる間もなく、塚田が飛び出した。
「速い!」
塚田は驚異的なスピードで、まるで地面を這うように迫ってくる。
一瞬の出来事で、私は構えが遅れる。だが、ヤトの方が塚田より速かった。空から急降下し、塚田に勢いよく足蹴りを食らわせる。塚田はひるみ、思わず体を地面に倒した。
「凪!走って!」
私は振り返り、腰が抜けた花丸の腕を思いきり引っ張った。
「わ、ちょ…ちょっと!」
よろめきながらもなんとか立ち上がる花丸。成すがまま、私に引っ張られながら走り出す。
「どうする!?凪!?」
ヤトがすぐさま追いつき、尋ねる。
どうすべきか、私は本能で理解していた。前も思ったが、この塚田は足がべらぼうに速すぎるのだ。実は高校の体育祭のリレーの選手に選ばれ続けている私。毎年記録を更新していて足の速さにはちょっぴり自信があるのだが、この塚田には到底敵わない。私は覚悟を決めて振り返り、十メートルほど先にいる塚田を見据えながら竹刀を構えた。
「ここで戦う!」
残された道はそれしかない。こうなったら、塚田を倒して穴から逃げる!塚田は走りながら小刀を私に向けて構え、勢いそのままに迫ってくる。
刀の軌道は…胴だ!
私は腰を入れ、竹刀で迎え撃とうとするが、塚田の一撃は凄まじく鋭い。塚田の力は、前に戦った時よりも格段に増している。私は押し負け、体勢を崩す。次の瞬間、塚田の小刀が顔面に迫る。私は反射的に仰け反った。耳元でザッと嫌な音が響く。髪が数本斬られたような感覚に襲われ、恐怖で足がすくみそうになる。
だけど、負けない!
私は自分を奮い立たせ、体勢を崩しながらも思いきり塚田のみぞおちに蹴りを入れる。塚田はわずかに苦しそうな表情を浮かべたものの、倒れるには至らない。体勢を崩したせいか、蹴りに力が入らなかったのだ。
くそ、もう一発…!
再度足を踏み込もうとした時、ヤトが再び塚田に急降下した。だが、今回はヤトの体が赤い光を
あれは…?
ヤトは塚田に足蹴りを食らわせるが、その時、ヤトの足から閃光が走ったように見えた。塚田はうめき声を上げて、倒れ込む。ヤトは素早く私の方へ飛んで戻り、肩にふわりと降り立つ。
「ヤト!今のは…?」
「人狼族と同じで、俺も少し力があるんだ。
ヤトは、いつもの無邪気な表情から一転、凛々しく力強い目をしている。
「八咫烏は進むべき者を導く存在。大丈夫だよ、凪」
ヤトは羽を広げ、私の竹刀を示す。
「凪、竹刀を構えて。いつも通りに」
私は言われるがまま、竹刀を構える。すると、ヤトは目を閉じ、静かに、まるで祈りを捧げるように呟き始めた。
──
闇夜を照らす
我が魂の導きに従い
盟友なる者に力を宿せ
正しき意志で刃を導け
──
神秘的な響きを持つ言葉に耳を傾けていたその刹那、体にビリっと小さな電流が走ったような感覚が広がる。目を上げると、竹刀が赤い光に包まれているのが見えた。その光はまるで道を示すかのように、以前ヤトが上木との決闘の際に渡してくれた、あの赤いブレスレットへと繋がっていた。
「え、えええ!?」
思わず驚く私。ヤトは一瞬微笑んでこう告げる。
「ビックリした?あのブレスレット、実は八咫烏の力が込められてたんだ。早めに渡しておいて良かった。この力、すっかり凪に馴染んでくれたみたい。これなら十分、人狼の血が入れられた塚田と戦えるよ」
ヤトの言葉に、私は目を見開く。いつもは無邪気な彼が、今は私の導き手のようだ。ヤトの言葉は不思議と胸の奥に響き、心を奮い立たせる。
ヤトは一体…。
「さあ、凪!構えて!」
私は気を取り直し、竹刀を構えて前を見据える。塚田は起き上がるが、少しよろめいていているように見えた。塚田が態勢を整え、小刀を構えようとしたその瞬間、私は自分から駆け出していた。こちらからの攻撃が不意だったのか、塚田は反応が遅れる。
前までの私なら、きっとできなかった。だけど今はヤトがいる。大丈夫、きっと勝てる。私は思いきり竹刀を振り上げ、塚田の顔面に向かって下ろす。
小細工はなしだ。真っ向勝負。
絶対に、絶対に、今度こそ押し負けない!
私は助走の力をそのまま両手に託し、思いきり力を込めて竹刀を押し込む。すると、塚田の小刀にかすかなヒビが入るのが見えた。塚田の表情が微かに歪む。私は息を整え、再び竹刀に力を込める。すると──。
──パキン!
塚田の小刀は完全に折れ、竹刀は塚田の顔面に思いきりめりこんでいた。