私は呆然と立ち尽くし、涙を流していた。袖で拭っても、溢れて止まらない。彼の苦悩を思うたび、胸が締めつけられる。今すぐ駆け寄って、その背中に触れたい。でも、できない。ただここで涙を流すことしかできない自分がもどかしかった。
「大丈夫かい?」
優しく響く、ヤトパパの声。私はゆっくりと頷いて、涙をしっかりと袖で拭った。
「焔さんが名前を変えたのは、安吾さんに『助けに行く』と伝えるためだったんですね」
「…この時は、そうだったのだろう。だが今は、人狼族の負の歴史を知り、彼自身もまた歴史の渦に飲み込まれた。安吾はかつて人狼族の歴史を終わらせようとした。今後を見据えて、世間に溶け込んで生きて欲しいと願っていたのだろう。だが、人狼族の血はこれほど悪用されてしまっては…。稜馬が遺書を書いたのは、ミレニア、そして安吾を葬り、自らをも──」
「ヤトパパさん」
私はそっと、ヤトパパの言葉を遮る。
「焔さんは、今もその名前を頑なに守ってる。きっとそれが、あの人の本心です。今も、安吾さんを助けるか、安吾さんと一緒に覚悟を決めるか、二つの感情で揺れ動いているんだと思います」
「…そう…かもしれないね」
「明日は勝たないと。絶対に」
私は決意を新たにして、拳を強く握り締める。すると、ヤトパパがこう言葉を続けた。
「じゃあ、私の力をほんの少し、プレゼントしようかな」
「え?」
「そのブレスレットを介すれば、少しだけ、私の力を与えられる」
「力?」
「八咫烏の詠唱だよ。それを唱えれば、君も息子のような力が使える」
「ヤトのようなって…あの魔法みたいな力!?」
思わず声がうわずる。あの力が使えるなんて、そんな夢みたいな話があるとは…!
「ヤトの詠唱で覚えている言葉はあるかな?力を連動させるために、息子の詠唱も少し取り入れたい」
「…そういえば、ひとつ…焔さんの名前が入った詠唱が…」
「ほう」
「確か、ヤトが人間に変化した時…全部は覚えてないけど…確か最後に…」
── 焔の如き 黒き影 天命を超え 姿を現せ ──
「…って言ってたような!」
「なるほど」
ヤトパパは、心なしか少し声が弾んでいた。
「どうしました?」
「いや、息子は本当に稜馬が好きなんだと思ってね。じゃあ、詠唱はこうしようか」
ヤトパパは厳かな声で詠唱を口にした。
──
夜斗の力よ 暁に染まれ
凪の調べよ 闇を導け
焔の如き 強き影
天命を超え 姿を現せ
──
この詠唱は…!
「…私の名前が入ってる!ヤトと焔さんの名前も!」
「そうだよ。息子と稜馬を大切に思う、君ぴったりの詠唱だ」
「あの…これを唱えたら何が?変身するんでしょうか!?」
「さあ、そこまでは」
「え?」
「はははっ。こればかりは唱えてみなければわからない」
「そうなんですか…」
「でも、ひとつ注意が必要だ。君は八咫烏じゃない。詠唱を使えば体力が一気に消耗するし、得られる力の時間も僅か。ほんの数秒だろう」
数秒…。
私は顔を強張らせながら息を呑んだ。
「もちろん、多用は厳禁。これを使う時は一発勝負。ある意味奥の手だ。いいね?」
「はい!」
すると、数秒の静寂の後、ヤトパパが穏やかに告げる。
「そろそろ、起きる時間だ」
いよいよだ。
私は拳を握りしめ、息を整えた。
怖がるな。自分を信じて、ありったけの想いをぶつけるんだ。
そう決意を新たにする私に、ヤトパパが穏やかに、そして力強く告げた。
「君の想いは、きっと伝わる。全身全霊、稜馬にぶつかっておいで」