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第114話 憎悪

 目が覚めると、私はぽつんと暗闇の中にいた。周囲は静まり、しんとした空気が流れている。


 さっき私は決闘をしていたはず。その後、力尽きて倒れこんで…。

 ということは…。


 ──これは夢だ。


 その時、数メートル先に、小さな丸い光が浮かぶ。ゆっくりと光へ歩み寄ると、そこには、白衣をまとったショートカットの女性──おばあちゃんがいた。


 顕微鏡を覗き込むおばあちゃんの傍らには、同じく白衣を着たロングヘアの若い女性が立っていた。年齢は二十代前半くらいだろうか。漆黒の瞳にスッと伸びた鼻筋。端麗たんれいな顔立ちで同性でもうっとりしてしまうほどだ。

 数秒後、おばあちゃんは顔を上げ、女性に向かって微笑んだ。


「見て!これ……!」


 おばあちゃんは立ち上がり、女性に顕微鏡を覗くよう促す。女性は顕微鏡を覗き込むなり、すぐに感嘆の声を上げた。


「…やはり、人狼族の血の可能性は計り知れませんね」

「思った通り。彼らの血はあらゆる病気の免疫に繋げられる。難病の抗体も作れるし、予防接種の精度も上げられる。人類の医療が一気に進歩する!」


 その声は、これまで聞いたことがないほど興奮に満ちていた。おばあちゃんにとって、この研究結果は余程大きな意味を持っていたのだろう。

 一方で、若い女性は顕微鏡からゆっくりと目を離し、顔をしかめる。彼女は立ち上がり、おばあちゃんを見据えて低い声で告げた。


「藍子さん…今更ですが、ずっと思っていたことが」

「え?」

「人狼族は、かねてから『敵』と見なされてきました。同じ人間でありながら、卓越たくえつした力を持つ彼らは、凶暴で、目的のためなら子供すら拷問して手にかける。そんな残虐な過去があるからこそ、これまで彼らは権力者たちに都合よく利用され、さげすまれてきた。藍子さんもご存知のはずです。彼らの血はけがれた血、呪われた血と呼ばれてきたことを」


 その言葉は静かながら、おばあちゃんの研究への苦言がはっきりと感じられた。


「人狼族の免疫力や回復力は確かに目を見張るものがあります。ですが、彼らの血を医療に使うなど、道徳的に受け入れられない人も多いはずです。それにこの血…人狼化を促す原動力として悪用されることも十分考えられます」


 おばあちゃんは言葉を遮ることなく、黙って聞いていた。そして、一拍の間を置くと柔らかく微笑み、そっと女性の肩に触れる。


「…あなたは、人狼族に会ったことが?」

「…いいえ」

「学校で散々教わったわよね。人狼族の負の歴史。テレビや新聞でも、凶暴な民族っていつも報道されていて…。だけど、実際の彼らは全然そんなんじゃなかった」

「…会ったのですか?」


 女性の問いに、おばあちゃんはゆっくりと頷く。


「まさか、この血のサンプルの出所は…藍子さんだったのですか?研究所の上層部が極秘に手に入れたと聞いていましたが」

「数ヶ月前、人狼族の患者を受け持ったの。それがきっかけで村へ行って、御影一族の人たちと話をした。最初は研究のためだったけど…友人みたいな人ができて」


 おばあちゃんの声が次第に弾む。楽しげに話す表情からは揺るがない思いが感じられた。


「人狼族には確かに負の歴史がある。それでも、本当のことは自分の目で確かめなければわからない。少なくとも、私が会った『今』の人狼族は…とても義理堅くて、信頼できる人たちだった」


 女性は目を伏せたまま、黙り込んだ。その様子が気がかりだったのか、おばあちゃんは再び女性の肩に優しく触れる。


「桂木さん、いつもありがとう。私向こう見ずだから突っ走っちゃうけど、もう少しだけ付き合って。極秘で続けてきたこの研究も、今が正念場。ここを乗り切れるかどうかで、人類の未来が決まる。私、本気でそう思ってるの」


 桂木──。そう呼ばれた女性は顔を上げることはなかった。

 おばあちゃんは小さく息を吐くと、再び椅子に腰を下ろし、顕微鏡を覗きこむ。


「大丈夫!偉い先生方から何か言われても、私ごり押しするから。それに、『血』の詳細なデータを共有するのは私たち研究チームだけ。来年、人狼族の研究を本にまとめるけど、悪用されそうなデータは一切載せないから。この血が悪用されることはない。彼らの血は、希望の血。私たちの未来を、きっと救ってくれる」


 その言葉を聞いて、私は自然と笑みがこぼれた。

 やっぱり、おばあちゃんは私の知っているおばあちゃんだ。言葉の節々から滲み出る優しさと強さ。それを改めて感じて、胸が熱くなる。


 そんな中、ふと疑問が湧いた。それはさっきおばあちゃんが口にした言葉だ。


 ──悪用されそうなデータは一切載せない…


 おばあちゃんは血の「力」の一部を公開しなかった?

 でも、ミレニアは人狼族の血の力を知っていた。だからこそ、焔の故郷を襲い、安吾をさらったのだ。つまり、公開しなかった情報が漏れたことになる。


 一体誰が…。


 考えを巡らせながら、私はおばあちゃんの後ろに立つ女性──桂木に目をやった。その瞬間、思わず息を呑む。桂木は、先ほどまでの穏やかな表情から一転、別人のようにおばあちゃんを睨みつけていたのだ。


 だが、おばあちゃんは彼女の異変にまるで気付いていない。顕微鏡に向かったまま、穏やかな表情を浮かべている。


 私は、睨みながら唇を微かに震わせる桂木を見て、言い知れぬ恐怖に襲われた。


 彼女の表情から感じられるのは、怒りと憎しみを超越した殺意。その視線は針のように鋭く、冷徹で、目の前の人間を心の中で何度も刺し殺しているかのようだった。


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