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第116話 宿命

 その後、私は着替えて屋根の上に腰を下ろしていた。屋根はやや傾斜のある金属板で程よく冷たくなっている。


 隣に座る焔は、珍しくラフなシャツ姿で、夜風で袖がふわりと揺れる。目の前には、無数の窓明かりと背の高いビルの群れが広がり、微かに聞こえる車のクラクションが、どことなく優しく響いていた。


 雲ひとつない空には、星がこぼれるように瞬いている。しばらく夜空に見とれていると、焔がそっと紙包みを差し出した。


「…え?」


 中身はほんのり温かいサンドイッチだった。ふわふわのパンに、たっぷりの卵が挟まっている。


「…作ってくれたんですか?」

「口に合えばいいんだが…ささやかな、お詫びのしるしに」

「お詫び?」


 すると、焔がそっと私の右手を取り、視線を手の甲に向けた。


「君に怪我をさせた」


 手の甲を見ると、赤いアザがうっすらと浮かんでいた。まったく気付かなかったが、決闘中に怪我をしたらしい。


「へっちゃらです!真剣勝負だったんだし!気にしないでください!」


 焔は目を細めて微笑むと、サンドイッチを食べるよう促した。実はお腹がペコペコの私。ガブッとサンドイッチにかぶりつく。クリーミーな卵の旨みが口いっぱいに広がり、笑みがこぼれる。


「美味しい!ちょっぴり甘いですね」

「練乳が入ってる」

「…練乳!?」


 目を丸くする私。

 彼は少しだけ照れくさそうに笑い、サンドイッチを頬張った。


「昔、よく作ってくれたんだ。安吾という…兄のように慕っていた家族が」


 その名前に、私は手にしていたサンドイッチを下ろした。胸の中で何かが静かに脈を打ち始める。


「私は御影一族の分家で、本家の跡取りである安吾とは兄弟のように育った。安吾は私の憧れで、いつかはこんな男になりたいと、そう思っていたんだ」


 彼は僅かに目を伏せた。表情は変わらないが、その口調から安吾への想いが感じ取れる。


「襲撃の日、安吾が私を逃がしてくれた。あの日を悔やまなかったことは、一日たりともない。もっと人狼の力を維持できていたら、安吾はきっと攫われずに済んだ。それが悔しくて、SPTに入隊してからはがむしゃらに剣術を磨いた。安吾を助けたい一心で。だが──」


 そこで焔の言葉が途切れた。私は彼の顔を覗き込むように、静かに問いかける。


「…焔さん?」

「…私は、愚かだったんだ」


 焔は遠く夜空を見上げたまま、言葉を続けた。


「SPTでの初任務。私は直属の上官と共に、ミレニアの使徒と対峙した。だが、任務中に上官が負傷して部隊は撤退。後日、負傷した上官を見舞いに行った時、彼は私にこう言ったんだ」


 ──今すぐ出て行け。その銀髪を見ただけで反吐が出る。俺から言わせれば、ミレニアも人狼族も罪の重さは変わらないんだよ。


「…どういう…意味ですか?」

「君は知らないだろうが、この世界の歴史の授業では、度々人狼族が登場する。忌まわしい民族、恐怖をもたらす異種族として。私たちの先祖は過去、私利私欲のために権力者たちに媚を売り、誘拐、暗殺、裏切り、残虐な行為を繰り返してきた」


 私は息を呑む。焔の声が少しだけかすれた。


「恥ずべきことだが、私は自分の先祖が犯した罪を詳しく知らなかった。…いや、知ろうともしなかったのだ。だから、村が襲撃されて喜ぶ者も大勢いた。この世の元凶が消え失せたと」


 私はかつて焔が語っていた言葉を思い出した。それは、村の襲撃後に開催されたという「人狼展」の話。そこには、過去に処刑された人狼族の骨格標本や襲撃で亡くなった人たちの遺品が見世物のように並べられていたという。


 なぜ人狼族がそんな扱いを受けるのか、理解できなかった。だが今、その答えの一端に触れた気がした。私が思っている以上に、人狼族は恐れられ、さげすまれ、差別されてきたのだ。


「負の歴史を知り、私は自らの血を呪った。そんな時に安吾の言葉を思い出したんだ」


 私はハッとした。襲撃の日、安吾は焔にある決意を語っていたのだ。


 ──人狼族の負の歴史には、私が終止符を打つ


「あの時の私は、安吾に怒りをぶつけた。だが、今ならわかる。安吾は先祖の大罪を知っていたからこそ、負の歴史を終わらせようとしたのだ」


 その時、星の光が彼の横顔に淡く差した。

 それはまるで、彼の苦悩を一層浮かび上がらせているようだった。


「本音を言うと、安吾を助けたい。だが、SPTとしてそれは正しいことなのか。私も安吾も、この世界から見れば不幸の元凶に他ならない。皮肉なことに、それはミレニアによって証明されている。それなら…私が本当にするべきことは、安吾の願いを彼の代わりに叶えることではないかと」

「それで、あの封筒を?」


 焔はゆっくりと頷いて、目を伏せた。


「それに、助けに行ったところで、安吾はもう五体満足ではないかもしれない。洗脳されて、何もかも忘れているかも。私は本当の意味で、安吾を救えないかもしれない。それなら尚更、私がすべきことは──」


 そう焔が言いかけたところで、私は彼の胸に飛び込み、その背中をぎゅっと抱きしめた。心臓の鼓動が、伝わってしまうくらいに。


 話の続きを聞くのが怖い。彼はすでに覚悟を決めているのではないか。数秒の沈黙の後、焔の手が私の頭に触れた。


「凪、大丈夫。怖い話はしないから」


 私はそっと顔を上げる。彼はどこか寂しげで、あたたかな笑みを浮かべていた。


「君が見つけたあの遺書。あれは…書きかけなんだ」


 そう言い終えた瞬間、彼の瞳が僅かに揺れた。

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