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第117話 相愛

 焔の言葉に、私は思わず目を見開いた。


「書きかけ…?」

「…最後まで書けず、何度も書き直して…。あれは長官……龍之介さんに宛てたものなんだ」


 SPTの長官──橘龍之介。


 彼が長官をこんなに親しげに呼ぶのは初めてだ。その呼び方から、長官が彼にとってどれほど大事な存在かが伝わってくる。


「あの人は、私のもう一人の父親だ。襲撃後、暫くは龍之介さんの屋敷で世話になった。あの人がいなければ、とてもここまで生きて来られなかった。そんな人が私の決断を知ったら…きっと気に病む。今までの恩を仇で返す気がして、どう書けばいいのかわからなくなった。あの人が少しでも気に病まないよう伝えたかったのだが…文章は難しいな」


 私は胸の奥をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。遺書を書きながら、読む相手の心をそこまで思っていたなんて。


「いつまで、長官のお屋敷に?」

「襲撃後、一年くらいか。だが、人狼族である私がいれば、龍之介さんはもちろん、その家族にも危険が及ぶ。とはいえ、家を出ると伝えたら強く反対されてな。条件を二つ飲めば許すと言ってくれた」

「条件?」

「ひとつは、SPTの地下シェルターに住むこと」


 その瞬間、私は息を呑んだ。以前の焔の家──クラブの地下。あれはシェルターだったのか。


「やっぱり!あの家は隠れ家だったんですね」

「ああ。気付いていたんだな」

「だって、地下にあるなんて変ですもん」


 私の言葉に、焔がふっと笑う。その笑顔がとても自然で、つられて私の頬も緩んだ。


「ふたつ目の条件は?」

「…ヤトと一緒に暮らすこと」


 その言葉を聞いた瞬間、ヤトパパが見せてくれた過去の映像を思い出した。映像で、八咫烏の村を訪ねた長官はヤトにこう告げたのだ。


 ──君には……彼の家族になって欲しいんだ


 長官は、焔の覚悟を察していたのだろう。

 ヤトならきっと、彼を止めてくれる。幸せになれるよう導いてくれる。そう思ってヤトを連れて来たのだ。


「ヤトが来て生活が一変した。賑やかで、目が回るくらい楽しくて。だが…そんな中でも安吾は捕われたままだ。心が揺れた時は、人狼族としてやるべきことを果たせと、いつも自分に言い聞かせてきた。そんな時……」


 焔が唐突に私を見つめる。

 思わずきょとんとしていると、彼は意外な言葉を口にした。


「……今度は、君が来た」

「…私?」

「君はソルブラッド──人狼族の血で上木を救った。なんの迷いもなく、命を懸けて。それを見て、祖父の言葉を思い出したんだ」

「祖父…御影関水さんですか?」


 焔は静かに頷く。


「我々の血は呪われている。だが同時に人も救える。それを一人の研究者が教えてくれたと」


 焔の言葉を聞きながら、私は夢で見たおばあちゃんの言葉を思い出していた。


 ──彼ら人狼族の血は、希望の血。私たちの未来を、きっと救ってくれる


 私は心が震えた。おばあちゃんがかつて歩んだ道が、今、焔の心を引き留めている。そんな気がしたのだ。


「君が上木を救命した時、また迷った。今も…答えは出ていない。自分がどうあるべきか。『けがれた血』として使命を全うすべきか、誰かのためにできることをするか……いや。おこがましいな。私ふぜいが…」

「人のためにできること、あるに決まってます」


 私は真っすぐと焔を見据えて、そう言い切った。


「焔さん、何度も私のこと助けてくれました。初めてこの世界に来た時も、紅牙組が襲撃された時も……財前さんに絡まれた時も!」


 ここまで言ったところで、焔がプッと吹き出した。


「…あったな。そんなことも」


 私も小さく笑う。けれどすぐに、彼に向き直った。


「人狼族の負の歴史…。その全部を焔さんひとりが背負うなんて、絶対におかしいです。それに、安吾さんも言ってました。焔さんには幸せになって欲しいって」


 その瞬間、焔が小さく目を見開いた。

 私はヤトパパに見せて貰った過去の映像のことを打ち明ける。


 ──お前には、幸せになって欲しいのだよ


「…雹がそんなことを…。それに、ヤトの御父上が例の『魂のおじさん』だったのか」


 私はゆっくりと頷き、力強くこう告げた。


「それに私、やっぱり思うんです。安吾さんがミレニアに『雹』と名乗ったのは、焔さんへの合図だったんじゃないかって。自分は洗脳されてなんかいない。ちゃんと生きてるんだって、焔さんにだけは、伝えたかったんだと思います」


 私は、そっと彼の手に触れた。一瞬、彼は驚いたように私を見つめる。私は目をそらさず、指先に少しだけ力を込めた。この気持ちが彼に伝わるように。


「安吾さんの今…本当のことを知るのは怖いけど…私もヤトも一緒にいます。安吾さんのこと、ちゃんと確かめるまで信じましょう。安吾さんは、焔さんのこと忘れてなんかいません」

「…真っ直ぐだな、君は」


 焔は、どこか感情を押し殺すように小さく笑った。私はその笑みに抗うように、語尾を強めた。


「だって、信じたいじゃないですか。安吾さんの言葉。安吾さんはきっと今も、焔さんのこと待ってます。会うまでは、信じましょう。会いに行きましょう、一緒に」


 涙が滲んで、声が震える。どうか伝わりますように。そんな願いを込めて、私は言葉を絞り出した。数秒の静寂の後、彼は柔らかく微笑んだ。


「…ああ」


 その笑顔に、私はほっと胸を撫で下ろし、静かに頷いた。そして、私たちは自然と、ゆっくりと星空を見上げる。ここは東京。都会なのに、不思議と今夜は無数の星が瞬いている。ふと横を見ると、焔がじっと私を見つめていた。吸い込まれそうな穏やかな眼差しに、ドキリとする。


「…君は、なぜここまで?」


 焔は目を伏せ、私の手の甲へと視線を移した。彼との決闘で怪我をしたところだ。


「天宮から聞いた。連日、丹後まで巻き込んで特訓していたそうだな。そんな無茶を、一体なぜ?」

「そんなの…当たり前です。だって、だって私…」


 そう言いかけたのも束の間、一気に頬が熱を帯び、私は言葉をつぐむ。

 決闘を申し出た一番の理由、それは、この人のことが…。


 ──好きだから。


 胸の奥から溢れそうになった想いを堪え、私はきゅっと唇を噛んだ。


 こんな独りよがりな想い、伝えても意味がない。

 私は、いずれここから離れる存在。どうせ、叶わない想いなんだ。


 私は軽く頭を振って、精一杯の笑顔を浮かべた。


「だって、私は焔さんの『対なる者』ですから!なんていうか…運命共同体っていうか」


 横目で焔を見ると、どこか寂しげな表情をしていた。無理して笑っていることに気付かれたのだろうか。私は慌てて、もっと大げさに笑う。この気持ちを、精一杯誤魔化したくて。


「私はいずれここを離れちゃいますけど、それでも…焔さんとヤトには、ずっと幸せでいて欲しいんです」


 これは紛れもない、本心。

 けれど、言葉にした瞬間、喉の奥が詰まる。涙を必死に堪えて、私は空を仰いだ。


 本当は、ここから離れたくない。

 一秒でも長く、この人のそばにいたい。


「凪」


 名前を呼ばれて、僅かに肩が震える。平静を装って横を向くと、焔は少し照れたように目を伏せた後、ゆっくりと優しく微笑んだ。彼の真意がわからず首を傾げると、彼はそっと、こう呟いた。


「……抱きしめても?」

「……えっ…!?」


 予想外の衝撃的な言葉に、一瞬で心臓が跳ねる。


 今なんと…!?


 ジンジンと熱くなる耳の奥。動揺を隠しきれず、目はあからさまに泳ぐ。そんな私を、焔は真っすぐに見つめている。


 …心の準備が…!


 とはいえ、ほんの数分前は私が突然抱きついた。それなのに「それはちょっと…」なんて言うのは失礼か…!?


 どうする!?どうする!?どう──…


 次の瞬間、焔がグイっと私の手を引き、力強く抱きしめた。触れたところから、彼の体温がじわじわと広がり、耳から頬、そして顔全体が熱を帯びていく。


「…凪、ありがとう」


 私は息を止めた。

 胸に響く鼓動が、周囲の音を掻き消していく。その中で、彼の静かな声だけが、真っ直ぐに耳へと届いた。


「…約束する。私は君から、離れない」


 その瞬間、私の涙が頬を伝った。そしてそのまま、両手を彼の背中に回す。いつも私を守ってくれた、温かな背中。誰も寄せ付けないような、凛とした強さをまとったその背中が、この時だけは微かに震えていた。

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