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第118話 抱擁

 数分後、私は焔に抱きしめられたまま戸惑っていた。


 それは、この後のこと。

 もしや、この先待ち受けているのは、チューというロマンス展開では…!?


 そんな妄想がよぎり、心臓がバッタのようにバタバタ跳ねる。


 この後の展開に、果たして私の心臓は持つのか──!?


 そんな思いが頭をせわしく駆け巡った、まさにその時…。


 ──ぐる…


 突然のマヌケな音に、私はハッと顔を赤らめた。お腹の音だ。さっきサンドイッチを一口食べたけど、それだけじゃ空腹は到底満たせない。


 今最も気にするべきことは、心臓が持つかどうかじゃない。

 このマヌケなお腹の音だったんだ──。


 ──ぐるるるる!


 今度はさらに盛大な音が響く。私は誤魔化すように焔の懐に思いきり顔を埋めた。だが、時すでに遅し。焔は肩を震わせてぷっと笑うと、ゆっくり私を離して楽しげに言った。


「失礼。食事の途中だったな」


 私は顔を真っ赤にして俯いた。すると、家の窓の方からバサッと羽ばたく音が聞こえた。

 この音は──。


「あああ!ずっるーい!二人でサンドイッチ食べてるう!」


 寝ていたはずのヤトが、目を覚ましたらしい。

 こっそりサンドイッチを食べていると思ったのか、ヤトはプク顔で羽をばたつかせている。


「大丈夫、ほら」


 焔はヤトにそう告げると、ミニマルサイズのサンドイッチを掴んだ。どうやら彼は、ヤト用のサンドイッチもちゃんと用意していたらしい。


 サンドイッチを見るなり、ヤトはぱあっと顔を明るくさせ、「うわぁーい」と軽快な声を上げながら、一直線に焔の胸元へ飛び込む。


「どうしたの?二人で屋根に登ったりしてさ!サンドイッチまで!」

「ちょっとな」


 ヤトは少し首を傾げた後、ふと夜空を見上げて楽しそうな声を上げる。


「へへへっ」

「どうしたの?」

「見てよ、お星さま!すっごく綺麗だよ!」


 ヤトに促されて、私たちも夜空を見上げる。満天の星。輝く光が夜空いっぱいに広がっている。その時──。


 ──パンッ。


 夜空に大輪の光が咲いた。どこかの花火大会だろうか。色とりどりの花火が空を彩っていく。


「宝石箱みたいだね!偶然見られるなんて、ラッキー」


 ヤトがぽつりと呟いた言葉に、思わず表情が緩む。


「それに、大好きな二人と一緒だもん!きっと神様がくれたご褒美だね。ね、凪?」

「うん!私も大好きな二人と見れて幸せ──」


 言った途端、ハッとした。ヤトに便乗して「大好きな人」と思わず口にしてしまったのだ。もちろん、焔だけじゃなくてヤトも大好きなわけだが、さっき「好き」という言葉を必死に抑え込んだ分、一気に恥ずかしさが込み上げる。


 私はそっと、焔を見る。すると、彼は今までに見せたことがないくらい、にっこりと微笑んでいた。柔らかくてあたたかくて、少し照れたような真っ直ぐな笑顔。その表情に見惚れる間もなく、次の瞬間、焔はヤトごと私をグイっと抱き寄せた。


「私も」


 耳元で焔の声が響く。私は顔を赤らめたまま、彼の胸元に再び顔を埋める。


 今の言葉は一体…?


 一瞬考えを巡らせるが、抱きしめられた驚きが勝る。私の疑念はあっという間に星空へと溶けていった。


 今、確かなのは、彼が私とヤトの傍にいたいと思ってくれていること。それだけで十分、胸がじんわりと温かくなる。私は小さく笑って、ゆっくりと目を閉じた。…だが、数秒後。


 ──ぐるるるる!


 再び鳴き渡るマヌケな音。

 私は「ヒッ」と情けない声を上げ、慌てて焔から離れたのだった。


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