私たちは薄暗い廊下をひらすら進んでいた。鉄と血が混ざったような
だが、明かりに足を踏み入れた瞬間、私は言葉を失った。
そこは、異様な研究施設のようだった。壁側には人の背丈ほどのカプセルがずらりと並び、中にはホルマリン漬けにされた人間──いや、ミレニアの使徒が静かに浮かんでいる。そして、中央のひときわ大きなカプセルを見て、私は手で口を覆った。
ひとつの肉体に、五つの顔。
すべての顔に浮かぶのは、怒りや悲しみ、そして耐え難い苦痛だった。
「…嘘だろ。お前ら……!」
財前の声が無機質な空間に虚しく響く。
私は悟った。
このカプセルの中にいる異形の存在は、紅牙組の組員たちだ。去年
その時、カツ、カツと小さな足音が響いた。松葉杖をついた万丈だ。
「よく来たね」
老いた声が、平然と響く。
「これは…一体…?」
私の体は震えていた。言葉を発するだけで、胸が冷えていくのがわかる。万丈はゆっくりとカプセルを見渡し、重い息を吐いた。
「私は…悔いているのだよ。自分の行いを。同胞を裏切り、桂木芙蓉と手を組んだことを。すべてが間違いだったのだ。このような非道な実験に加担することになるとは…」
言葉を失った。あまりにもあっけなく口にされた後悔。どう返せばいいのかわからない。私は、懐に収まるヤトをそっと抱き寄せる。
「この者たちは、こんな姿でもかろうじて生きている。残酷だろう?」
そう言うと、万丈は紅牙組の組員たちが収められたカプセルに手を添えた。すると、五つの頭が一斉に歯を剥き、万丈の手に噛みつかんとばかりに唸る。だが、その怒りは届かない。彼らの怒りはカプセルの壁に遮られ、虚しく震えるだけだ。万丈は哀れむような眼差しを彼らに向け、言葉を続けた。
「どうしようもなかったのだ。人は誰でも自分の命が惜しい。命を奪うと脅されて、誰が抗える?私はそうして、これまでの人生を桂木芙蓉にいいように使われてきたのだよ」
万丈の声はとても弱々しかった。どうやら彼は、芙蓉に脅されてこの非道な実験に手を染めた、と言いたいらしい。
「これは人狼の陰の気、ルナブラッドが成し得た非道なる実験。だがね、私は君に一筋の光を見出している」
その言葉と同時に、万丈はゆっくりと私へ向き直った。
背筋にぞくりと冷たいものが走り、私は反射的に後ずさる。
「ソルブラッドの宿主。癒しの力を持つ君なら、この歪んだ姿に変えられた者たちを救えるかもしれない」
その言葉が発せられた瞬間、ヤトの体がピクリと動いた。
…バレている。私がソルブラッドの宿主であることが。
万丈は私に、ゆっくりと手を伸ばした。
「こちらへ来なさい。今こそ君の、本来の力を発揮する時だ」
私は並べられたカプセルを見る。
ミレニアの使徒。
そして、紅牙組の人たち。
横を見ると、財前は膝をついて肩を震わせたままだ。この人の大切な「家族」を救えるのは私しかいないのか。
もし本当に、そうだとしたら…。
気付くと、私は持っていた雷閃刀をゆっくりと下ろしていた。心を決め、ほんの一歩踏み出そうとした…その時だった。
「凪」
不意に名前を呼ばれ、ハッと足を止めた。ヤトだ。
彼はふわりと舞い上がると、私の前に静かに降り立ち、真っ直ぐ万丈を見据えた。
「刀を持つ手を緩めないで。惑わされないで。あいつの言葉は、全部噓っぱちだ」
その瞬間、万丈の目が僅かに揺れた。だが、すぐに穏やかさを装うように首を傾げる。
「何を言って…」
万丈の言葉を、ヤトは強い口調で遮った。
「凪、これから言うことをしっかり受け止めて。カプセルの中の人たちは全員、もう死んでる」
──え?
心臓が、一拍遅れて動いた。
死んでる…?
でもさっき、確かに顔が動いた。
歯を剥き出しにして、怒りを露わにしていたはずだ。
「馬鹿なことを…この者たちが動いているのがわからんか!」
声を荒げる万丈。だが、ヤトは怯むことなく告げる。
「お前が人形のように装置で動かしているだけだ。八咫烏は魂の導き手。肉体に宿る魂が生きているか、見極めることは造作もないことだ。“彼らを救えるのはソルブラッドの宿主だけ”──そう言えば凪を取り込めると思ったんだろう。残念だったな、万丈」
振り向くことなく、ヤトは毅然と言い切った。私はその背中を見ながら、服の胸元をぎゅっと握る。
「本当なの…?ヤト…」
声が震えた。胸の奥で悲しみが広がる。でも、それだけじゃない。言葉にならない怒りがこみ上げ、顔が熱くなる。こんな残酷なことができるなんて。
──この万丈、許さない。
歯を食いしばり、雷閃刀の柄を強く握りしめた。すると、ヤトが再び静かに声を落とす。
「凪、焔を思い出して。焔が今、戦っているのは何のため?天宮と上木が、ここに来たのは何のため?」
ヤトの問いかけが、そっと胸に染みこんでくる。私は深呼吸をして、ゆっくり自分に問いかけた。
焔や天宮、上木。
仲間たちが危険を顧みずここに来た理由は、過去に行くため。
そして、桂木芙蓉を捕えるため。
そのために私は、彼女の居場所を知るこの男、万丈を逃がさない。
みんなのためにも、感情に呑まれてはいけない。
私は雷閃刀を構え直し、万丈を見据える。すると、万丈が懐から銃を取り出した。
「馬鹿め」
低い声とともに構えたそれは、見慣れた銃とは異なっていた。先端が細く青白い光を放ち、人狼特有の気配を微かに
私は息を呑む。ヤトも羽を広げ、警戒の色を見せた。
今の万丈の顔に、先ほどの静かさはない。浮かぶのは歪んだ笑み。やはり、ヤトの言った通りだ。万丈は私の心を揺さぶり、ソルブラッドの力を取り込もうとしたのだ。
すると、万丈は銃口を自らの後方へ向けた。そこにいたのは床に横たわった少年だった。辛うじて見える横顔からあどけなさが感じられる。
あれは──。
「…隼人!」
財前の声が響く。どうやらあの少年も紅牙組らしい。そういえば、以前財前が話していた。風間組長の息子もミレニアに
「ヤト…あの子…」
「生きてる。助けられるよ」
その言葉に、ほんの少し救われた気持ちになる私。だが、万丈は隼人へ銃口を向けたまま、薄ら笑いを浮かべた。
「こいつは利用価値があるから生かしておいた。確か、組長の息子だったかな。さあ、この少年を殺されたくなければこちらへ来なさい。言っておくが、ソルブラッドや八咫烏の力を少しでも発すれば、即座に彼を撃つ。わかっているね」
──卑怯者!
私は心の中で叫ぶ。
どうする?万丈の視線は、私とヤトに鋭く向けられている。少しでも抵抗すれば、隼人が殺される。すると、万丈はカプセルの前にゆっくりと歩み寄り、こう吐き捨てた。
「この紅牙組…まったくうるさい連中だったよ。傷めつけても言うことなど聞きやしない。これはその報いだ。よく見なさい。この憐れな姿を」
そう言うなり、万丈は高笑いをしながらカプセルを思いきり蹴りつけた。「ゴンッ」と鈍い音が静寂を打つ。
「奴らは私に何もできない。そのカラスの言う通り、死んでいるのだからね。馬鹿な連中だ。大人しく従っていれば、命だけは助けてやったのに。愚か者に相応しい末路だよ」
そう言うと、万丈はカプセルに唾を吐いて笑った。
「やめて!」
私は思わず叫んだ。
だが、万丈は私を一瞥し、また笑う。
「やめて欲しいならこちらへ来なさい。あの少年を、もっと惨めに、もっとゆっくり、もっと残酷に殺されたいかね」
万丈の言葉が心をえぐる。
悔しい。
でもどうすることもできない。
この状況では、私が行くほか隼人を救えないのだ。
私は静かに雷閃刀を下ろし、万丈を睨む。万丈は満足げに笑い、ほんの一瞬だけ銃口を下げた。
──その時だった。
パンッ!
突如、今度は私の後方から銃声が響いた。
振り向くと、そこには影の中に佇む財前の姿があった。
怒りに満ちた、冷徹な表情。
利き手である彼の左手には拳銃が握られ、その銃口は真っ直ぐ万丈に向けられていた。