日奈が辞めて一か月が経った。
月日は思ったより早く流れるようで、もう一か月経ったのかという気持ちだ。
だが、日奈が居ない部活に慣れたということは一切なかった。
多分、これからこの雰囲気に慣れることは無いのだろう。
「う~ん。あれぇ」
由美先輩が小さく困った声を出していた。
「どうしたんですか?」
「えっとねぇ。なんかキーボードが反応しなくなっちゃってぇ」
由美先輩がノートパソコンのキーボードをかちゃかちゃしながら困り顔を浮かべる。
「あれ?ここの棚にキーボード結構置いてませんでしたっけ?」
そう言いながら誠一が部室の後ろに置いてある棚を開ける。
そこにはいくつかのキーボードが積み重ねられていた。
「おっ、これとかいいいんじゃないですか?ちょっと使った形跡有りますけど」
そう言いながら誠一が棚の中にあった黒のキーボードを取り出す。
「あのぉ誠一君。それね....」
由美先輩が申し訳なさそうに言う。
「そのキーボード、全部私が壊しちゃった奴なんだ...」
俺は棚にあるキーボードを数える。
1,2,3,4,5...6個あるぞ。これ全部壊したって一体どんだけ文字打ったんだ。
いや、指圧が強いのか?まぁどちらにしても凄いことには変わりない。
「だから、このノートパソコンについてるキーボードが最後の砦でだったってこと。でもこれが壊れちゃったから....買いにいかなきゃってことになっちゃうよね」
「まぁ...そうなりますね」
「だから、一緒にキーボード買いに行くの手伝って欲しいなぁ...なんて」
「まぁ....俺は手伝いますけど。健吾と美咲ちゃんはどうするんだ?」
「う~ん。どうせだし俺は行こっかな」
「じゃあ私も」
「じゃあ買いに行こっかぁ」
「ところで由美先輩は何個買うつもりなんですか?」
「う~ん。十個ぐらい...?」
「絶対にそんなに要らないですって!」
廊下に出ていった由美先輩を、誠一と俺たちは慌てて後を追った。
===
「いやぁ買ったねぇ」
「ほんとですよ。一体何個買うんすか」
「まぁ部費だからねぇ。部長の権限ってやつ?」
「職権乱用が過ぎる...」
俺は今、見てはいけない世界を見ているのかもしれない。
俺はキーボードの箱二つを持ちながらそう思う。
一人二箱で計八個も買ってしまった。日奈が居たら十箱買ってたのかなとか考えてしまう。
「まぁ冗談だよぉ。キーボードなんて後輩の子も使うわけだしねぇ」
「由美先輩が全部壊しちゃうかもしれないですけどね」
「ふふーん。腕が鳴るねぇ」
「鳴らさないでください」
果たして文芸部の部費は後いくらほど残っているのだろうか。
いささか不安である。
俺たちが部室への帰路に就いている途中、コンビニの前を通ったときにかなり見たことのある顔を見つけた。
「おっ、日奈じゃん!」
日奈は眼鏡をかけ、スーツを着ている男性と一緒にコンビニから出てきたところだった。
日奈の着ている服はなんか色々装飾品が付いていて、まさにアイドルって感じだ。
俺と誠一は日奈に手を振る。
日奈も小さいながらも手を振り返してくれた。
誠一が日奈に近づいていく。
その時、日奈の隣に居た男性が日奈に耳打ちした。
「なんかアイドルって感じだな!部活してるときはアイドルって感じじゃなかったけど。ホントにアイドルだったんだな」
「ホントにアイドルだったんだなって何よ。失礼ね」
「お前か?日奈を部活に誘ったのは」
ずかずかと男性が誠一に近づいていく。
「あっ、違います」
「そうか。じゃあ誰なんだ?」
「お、俺です」
俺は恐る恐る手を挙げる。
「お前か。日奈を部活に誘ったってのは。お前らと違って忙しいんだ。もしアイドル活動に影響が出たらどう責任を取ってくれるんだ?」
「小暮さん別にそんな言い方しなくても」
「いや、言う。こいつらは日奈の価値が分かっていない」
「価値...?」
「そう、価値だ。日奈のために何万の金が動いてるんだ。もし日奈に何かがあればその何万の金がすべてぱーになるし、今後入ってくる金の総額も変わってくる。
勿論、その総額なんて高校生のお前らが絶対に動かしたことがない金額だけどな」
「そ、それって日奈の楽しみを奪ってまで大切にすることですか?」
「ああ、大切にすることだ。金で人は動くし、金のために人は動くんだ」
「そこに日奈の気持ちを考えたことはありますか?」
「気持ちより大切だからな。気持ちなんて考えん」
「そんなのあんまりじゃねぇか」
「あんまりじゃない。当然だ」
小暮さんは、誠一を鋭い目で見つめた。
ちらっと見た日奈の顔は、暗かった。
確かに俺はそんな大金を動かしたことなんてないし、働いたことがあるのもコンビニのバイトくらいだ。この男が言っていることが楽しいのかもしれない。
でも、小暮さんの言っていることに腹が立つのは、俺だけじゃなくて、ここに居る全員がそう感じているはずだ。
「日奈は部活は辞めたくないって言ってました。でも、あなたに言われて辞めざる追えなかった。日奈が部活に入ってて、何か不利益が起きたことがありましたか?」
「起きたことは無い。だが、起きるかもしれない。リスク管理はちゃんとすべきだ」
「日奈の楽しみを奪ってまで...ですか?」
「そうだ。どうしても部活に戻したのかもしれないが、もう無理だぞ。
日奈も俺にリスク管理はちゃんとすると言ったが、俺は断った。つまり、もうどんだけ説得しても無理だ。日奈も俺の言うことが聞けなかったらアイドルを辞めさせるという条件を聞いて、日奈が選んだ結果だ。諦めろ」
小暮さんの言葉に、俺は嘘を感じる。
「アイドルを辞めさせるって、嘘ですよね?」
日奈と小暮さんに、驚きの表情が浮かぶ。
「嘘?何言ってるんだ?」
小暮さんが不思議そうな声を上げる。
「一プロデューサーが、そこまで出来るんですか?」
「な、何を言ってるんだ。高校生がそんなこと知らなくていいだろ」
「何で教えてくれないんですか」
「お二人さん。ちょっと落ち着いてぇ」
後ろから由美先輩がスマホを持って前に出る。
「なんだ?さっきまで何も言ってなかっただろ」
「う~ん。高校生の私が言うのもあれなんですけどぉ。一応会社の看板を背負って発言してるって思った方がいいと高校生の私は思いましたぁ」
「何を言ってるんだ?」
「私ずっと録画してたんですけどぉ。あなたの発言って、流石にまずくないですかぁ」
由美先輩がスマホをタップすると、スマホから先ほどの男の声が流れてくる。
「ぐっ」
「それにぃ、あなたがアイドルを辞めさせられるって、本当なんですかぁ?」
「そ、それは」
「嘘はだめだぜ。結局この動画流せば真実が知れる」
「そ、それは止めろ。動画は流すな。ていうか動画を流すということは日奈の名前に傷が入るかもしれないんだぞ。それでもいいんだな?」
「あなたは勘違いしてる。あなたは自分の発言を棚に上げて日奈ちゃんを盾に流させないようにしてるのかもしれないけどぉ。いい感じに編集したら、あなたの悪評だけばら撒けるしね!」
「ちっ」
「そもそも私たちはあなたに嫌がらせしたいわけじゃないんですよぉ。むしろ仲良くしたい的な?だから、お願いを一つだけ聞いてほしいなぁ....なんてぇ」
「お願いか?」
「そう、お願い。日奈ちゃんが文芸部に戻りたいっていったら、戻してあげて欲しいなぁっていうお願い」
由美先輩は日奈を見た。
そう言われた日奈は、困った表情を浮かべていた。
ちらちら俺や誠一などの顔を観たり小暮さんの顔を見たり、視線が泳ぎまくっている。
「日奈、お前は辞めたくなかったんだろ?」
俺は、日奈の目を見ながら言う。
「私は...戻りたい。小暮さん、私文芸部に戻りたいです」
「そ、そんなの言いわけ...」
小暮さんは、ちらっと由美先輩を見る。
「いや、許そう。私が何を言っても焼け石に水だろうからな。別に何かが起こるまで止めはしない」
「小暮さん。一つだけお願いを聞いてくれませんか」
俺は、小暮さんの前に立つ。
「ん?なんだ?」
「日奈だって、アイドルだって人です。気持ちがあります。気持ちがあるから、俺たちも気持ちがあるから、日奈のためにここまで突っかかったんです。
だから、今後は日奈の気持ちも、考えてはくれませんか?」
「...まぁ検討しよう。日奈行くぞ。部活に復帰したとしてもこの仕事をキャンセルできるわけではない」
「ということだから、みんなまたね~。ほんとにありがと」
日奈は手を振りながら車に乗っていった。
===
「いやぁ良かったねぇ」
「ほんとですよ」
「由美先輩ファインプレーでしたね」
「でしょ~。こういう展開どっかで読んだことがあったような気がしたから、録画しとこって思ったんだぁ」
俺は文芸部の部室を眺めて考える。
今は俺含めて四人だ。
だけど、ここに騒がしい日奈が帰ってくる。
別に今までも仕事で日奈が居ないことなんて結構あった。
だけど、もう部室に来ないと思うのと、いつか部室に来ると思うのとでは、気持ちが全然変わってくる。
思わず頬が緩んでしまう。
その時、ガラガラと部室のドアが開いた。
「ただいまー!!」
コンビニに居た時の衣装のままの日奈が、部室に勢いよく入ってくる。
「お、お前仕事はどうしたんだよ」
誠一が驚きの声を上げる。
それもそうだ。俺たちが日奈と別れてから1時間も経っていない。
「まぁ挨拶だけだったからねぇ。帰ってくるのも早いってわけよ。
もしかして誠一...いや、みんな私が居なくて寂しくしてた?もぉしょうがないなぁ」
「由美先輩、やっぱ部活やめてもらいましょう」
「う~ん。検討しなきゃ」
「ごめんごめんなさい!嘘、嘘だから勘弁して!せっかく戻ってきたのに」
「ふふっ、嘘だよ。まぁ日奈ちゃんが居なくてあんまり盛り上がらないなぁって思ってたし」
「それに、誠一君が日奈ちゃんがいなくてなんかテンション低かったしね」
「それほんと美咲ちゃん!?もぉ誠一ったらぁ」
「うるせぇ。俺のテンションについて来れるのが日奈だけなんだよ」
「任しなさい。私が盛り上げて見せるわ」
「ここ、文芸部なんだけどなぁ」
由美先輩が、困ったように少し笑った。
俺は日奈の姿を見て思う。
日奈が来なくなって一か月。
これが、本来の姿なのだ。
俺は少し、懐かしい気持ちと嬉しさに浸った。