音川の意識が目覚めた。
手を見、そして体、足へと目を向け奇妙な違和感を覚えた。体はあるがそこに実体は無く、まるで空っぽの器だ。胸は呼吸に合わせ動いているものの空気を吸い込こみ吐き出す感触はまったくもってない。体は淡く光り、輪郭が微かにぼやけ、透けて見える。
『目が覚めたか』
頭上からミラーナの声が響き、音川は声のする方を見上げた。
遥か彼方に煌めく巨大な手が見える。声はそこから聞こえてきた。
『もう一度言うぞ。ここからは時間との戦いだ。魂が崩れる前にエリナの記憶に辿り着け』
音川は魂だけの存在となって女神エリナの分け身の意識の世界へと侵入を果たした。分け身のエリナには本体の記憶が反映される。服や持ち物、髪型。地球のエリナが身に着け、感じた全てが反映されている。しかし本体と分け身に強い繋がりはなく、分け身には意識がない。
ミラーナはエリナ本体の記憶が分け身に反映されるのなら、逆も可能なのではと考えた。分け身が体験し、記憶した出来事が本体のエリナにも届くはずだと。音川たちがここにいることを、分け身の傍にいることを自覚できればそれが突破口に繋がるのではないかと考え、地球で共にいたという繋がりの強い音川がエリナの精神の中に入り込むこととなった。
音川は進んだ。あたりは仄暗く、濃い灰色の世界だ。深い霧の中にいるようでもある。光を拡散させ、ボヤケさせる深い霧だ。そして地面はなく、空もない。
進む。そう意識すると魂だけの存在であっても自由に動くことができる。まるで水中を進む魚か、それか空を飛翔する鳥のような気分であり、動いている感覚はあるが、どの方向へ進んでいるかははっきりとはわからない。なにせ泳いだ時に感じる肌への水の抵抗も、風が掠める感触もないのだ。頭上で輝くミラーナの巨大な手だけが目印だった。
頭上からミラーナが言う。
『そうだ。そのまま進め』
「でもどっちに進んでいいものか、まるでわかりません」
『自分の感覚に意識を向けろ。引力。磁力。とにかく何でもいい。自分が進む方向はそれでわかる。自分を信じろ。歩く時にいちいち足を意識しないのと同じだ。できて当然のことだ』
音川の体はエリナに隣り合って寝かされており、二人の額にミラーナの手が触れている。ミラーナは他人の記憶に触れて覗き見ることができるが、記憶を残すことはできない。
今は音川がエリナの精神世界で魂が砕けぬよう魔法による助力をすることにしかできないが、それも完全ではない。女神の魔力体形はミーシャの放った魔力とは別のもので、どこまで通用するかは未知数であり、ましてや他人の精神の中に魂ごと入るのは危険極まりない。相手が女神となればその危険度は計り知れないだろうことは魔法に詳しくない音川にも容易に想像できた。
寝かされた音川の傍にはラギが座り、音川の手をしっかりと握りしめていた。
不安そうに見つめるラギの熱い手の中で音川の手は徐々に温もりを失いつつあった。魂の抜けた体は死体と同じであり、生命維持をミラーナの魔法に頼っているためだ。
「帰ってきてよね。あたしも姉さんも待ってるから」
ラギの音川の手を握る力がいっそう強くなる。
エリナの精神世界で音川は進み続け、ふと左手を見る。実体も無く、感覚のないはずの手が暖かかい。音川は強く拳を握る。何かは分からないが音川はその暖かさに勇気づけられる何かを感じ取り、口を結び、進む速度を上げた。
「おおおおお、らぁ!」
佐藤は飛び上がって真下にいるリーアに剣を突き立てようとした。リーアは黒い細剣で佐藤の剣を軽くいなして受け流して聖剣を踏みつける。
「邪魔を、するな!」
リーアの重い反撃が蹴りとして繰り出され佐藤のみぞおちに打ち込まれる。佐藤は怯み、大きく弾かれた。
「エリナ!」
佐藤の叫びにエリナがすぐさま反応し、転送魔法陣を展開し佐藤を中に入れる。魔法陣の出口はリーアに向けれており、佐藤が飛び出し、聖剣を薙ぐ。
リーアは体を背後へ大きく体を仰け反らせ、鼻先を掠める聖剣を見送ると佐藤の胸倉を掴んで体を捻り、地面に叩きつけた。
「あがっ」
「その情けない悲鳴。もう出ないようにする」
リーアが赤熱した細剣をくるりと反転させ、佐藤の顔面へつき下ろす。佐藤は顔を逸らし、頬が切れ、肌が焼ける。
エリナは佐藤とリーアが戦うその隙に宮之守へ駆けた。
「宮之守! 起きろ!」
宮之守は目を開き、しかしまどろんでいた。彼女の意識は魔力の奔流の中を漂い、その力に酔いしれている。彼女を取り巻く魔力は可視化され、徐々に黒く変質し始めていた。
エリナは宮之守が纏う魔力を引き受けて操り、抑え込むつもりだ。魔力を分散させれば宮之守は目を覚ます。彼女は自分を殺せというだろうが、黒い力が発動目前の状態ならそのような余裕もない。必ず協力し、事態を改善するため尽力すると信じていた。
「起きろと言っている! 魔力を好きにさせ寝ぼけたそのような情けない顔などおまえではないだろう!」
「近寄るな! 不完全な女神が私の女王に触れようなどと!」
リーアはエリナの考えを理解し、エリナの体には力の一部を引き受けるだけの器があることも理解した。リーアが動こうとし、しかし何かがつっかえ阻んでいる。
見れば押さえつけている佐藤がリーアの燃える細剣を左手で掴んでいた。刃が食い込み、熱が肉を焼かれることも彼は恐れていなかった。
「こっち見ろよ。まだ俺は生きているぞ」
佐藤は聖剣の柄でリーアの腹を殴打し、跳ねのける。
「邪魔な奴!」
リーアが佐藤を睨みつける。
「宮之守!」
エリナの呼びかける声と、伸ばされた手。リーアがエリナの方を見、目を見開いた。佐藤がすかさず斬りかかった。
「こっち見ろってんだよ!」
佐藤が魔力と筋力にものを言わせた力強い聖剣の一振りがおろされ、リーアの赤熱した細剣が聖剣を受け止める。刃と刃の接触した箇所より火花が爆ぜて火が吹き出した。火は炎となって熱風が佐藤を圧し、押し返す。剣と剣の間からから溢れて吹き出して激しく揺れる炎と熱の間から、リーアは氷のように冷たい瞳で佐藤を睨んだ。
佐藤はとっさにその場より飛んで離れた。地中から燃える数本の槍が突き出し、摩擦音と共に交差する。
「あっぶね」
リーアは佐藤を指さした。その瞬間、槍が連続して地中より出現し佐藤へ迫った。エリナの手が宮之守に触れる。リーアはその様子を一瞥し、すぐに佐藤に視線を戻す。佐藤は地中から飛び出す槍を切断し、攻撃を凌ぎつつもリーアとの距離を詰めてきている。
エリナが王女を意識をはっきりさせようという魂胆であろうがまだ間に合う。
リーアははじめ、佐藤をそれほど重要視していなかった。やっかいなのは女神の方だ。女神としての本来の力を失っていたとしても、その力は侮れない。屋上で不意を突き、一度は行動不能にしたものの、立ち上がり、立ちはだかる。まさに不死の理想形である。
しかし戦いにおいて真の脅威は女神エリナではなかった。人の身でありながら何度打ちのめしても立ち上がるこの男こそが最初に倒すべき相手であると評価を改めた。
リーアがふっと笑った。
「ミーシャとの打ちあいに時間をかけすぎてしまった。もっと早くしていれば、この戦士の相手をする必要もなかった」
リーアは佐藤の斬撃を跳ねのけ、赤熱する切先を佐藤の心臓へ打ち込もうとした。
佐藤は心臓へ滑りこもうとする刺突の一撃を左腕で防御した。アームプレートが貫かれ、佐藤の腕を貫く。じゅうという音と共に煙が傷口より吹き出し、筋肉が焦げる。佐藤は顔を痛みにしかめながらも怯まず、リーアを闘志に満ちた目で見ている。
「痛ってぇだろうが!」
「さすがはミーシャが見込んだ戦士、といったところかしら。こうも急所をそらしてくるなんて」
リーアが佐藤の胸へ手を当てる。零距離から衝撃波が放たれ、佐藤は上空へ打ち上げられた。
「痛ってぇ……!」
「ほら。また逸らした。あなたを先に殺すとする。すごくムカつくから」