何もない。音もない世界。ここは無限の虚無の空間が広がっている。
窒息しそうな息苦しさと、不安感。せめて少しの光でもあれば。ここには何もない。何も、何も。もしこのままだったらどうなるのだろう。
時間が無いという焦りと、エリナの記憶に辿り着けないという恐れが音川の心を蝕み始めていた。私はここで死ぬのだろうか? 死ぬ?
ほんの少し、頭の片隅に浮かんだ言葉を自覚した瞬間、音川の魂は震え、形を歪ませた。突如として自分は戻れないのではないか。音川の心の中の不安が大きく膨れ上がった。
胸が苦しい。心臓が激しく跳ねている。心はざわついて少しも止まっていられない。音川は喉を抑え、手足をバタつかせた。
深海に引きずり込まれるような恐怖と窒息感が襲い来る。幾ら足掻こうが進むことも無く、ただ沈み込んでいく感覚。
嫌だ。こんなところいたくない! 出して! 音川は叫んだ。意識が色のない泥の中に沈み込んでいく。
「落ち着け。今のおまえは精神、魂だけの存在だ。呼吸は必要ない。苦しいという感覚は錯覚だ」
ミラーナが音川、エリナの額に触れながら声をかける。
机に寝かされた音川の体は開始当初よりもずっと冷たくなっており、さらには痙攣し始めていた。
「おまえは強い。自分をしっかり持て」
ラギが目をぎゅっとぶつり、顔を逸らした。姉のため、皆の為に進もうとする見知った音川の体が不気味にがくがくと揺れる様子を直視していられなかったからだ。だがそれでも決して手を離そうとはしなかった。離してしまったら二度と戻らないような気がしたからだ。
唐田が音川の痙攣する体を抑えながら言った。
「インさん! 何か柔らかいものを!」
インが慌てて、傍にあったシーツを丸め、音川の頭の下に置いた。
ミラーナが落ち着いた声で言った。
「自分を見失いかけてる。このままだと魂がばらばらになる」
ラギが目を充血させ、叫ぶ。
「何かできないの?」
「ここからはできない」
「でも声は届くんでしょ!」
「あたいの声だけだ」
「なら、あたしの声を伝えて!」
砂の流れる音を音川は聞いた。さらさらと乾き、岩が砕けて散る。音川の心は止まっていた。とめどなく思考は溢れるが心はそれを認識しない。精神と肉体が分離してもなお肉体は五感を通し外界からの情報を受信し続けているものの、心は受け止めず、全てが素通りしていく。
魂だけとなった音川は手を伸ばした。それは反射に近いもので、肉体が痛みや熱を感じて起こす筋肉や、肌の緊張や収縮が反映されているに過ぎない。音川は焦点の合わない虚ろな目で自分の手を見た。指の先が粒子となって散り始めている。砂の流れる音は音川の魂が形を保てなくなってきていることの表れだ。このまま進めばいずれ、音川は音川でいられなくなる。
暗い。暗い。何も、ない。私は……。どうしてこんなところにいるのだろう。どうして一人なんだろう。何のために来たんだっけ?
音川の思考は取りとりとめないものを記憶の底から呼び起し、流れていく。
怪物。血。傷。剣。弓。魔法。熱。
おきて。
赤。黒。紙。木。秋。動物。竜。
進むんでしょ。
葉。熱。電気。ケトル。手。温もり。春。太陽。車。
いっしょにいてよ!
星。夜。川。足跡。におい……音……。
“それでね一緒に空を見ようよ。お日様の光を葉っぱで透かして見て。夜は星を数える。あとは動物の足跡を追って。川でまん丸の石を探そう。それから……えーと、とにかくいっぱい色んなものを見よう! ”
マミ!
ラギ。……ナハタ。
友達。
音川は目を見開き、肉体はラギの手を握り返した。
「ラギ!」
手には何もない。だがしかし、感じている。音川の手のひらには確かに温もりがあり、奥に熱さを感じている。
「私、どれくらい意識を」
『数分だ。危なかったな』
「ラギの声が、聞こえた」
『あたいの力を通してな。さぁ動け。時間がないことは変わってないぞ』
体を反転させ、音川の精神は霧の中を進んでいく。奇妙だが確信があった。エリナの力を感じるのだ。
それと奇妙な感覚はもう一つあった。どことなくながれる懐かしさだ。周囲に漂う微かな光の粒子。眩く輝く輪郭のないぼやけた光はかつて見ていた光景に似ている。
そうだ……思い出した。目が見えなかった時の感覚に近いんだ。
肌、指の先。耳が敏感に研ぎ澄まされている感覚。異世界に入ったとき、耳は敏感に音を感じ取ったが、それとはまた別の感覚だ。
音川は赤い目となる前、光の弱い世界にいたことを思い出した。今はもう遠い昔のようであって、光のある世界に入ったことで忘れていた感覚だった。音川は腕を、手を広げた。
集中。見つけるんだ。エリナさんの記憶へ場所。