「ここは……」
音川のそばを銀色の光の粒子が掠め、先頭にいるエリナの傍を通り過ぎていった。
「裂け目と裂け目の狭間だ。我の領域であり、おまえたちもあの世界に行くときに通ったはずだ」
「それにしては不快感もないし。ちゃんと立っていられますね」
「ふん」
唐田の疑問にエリナは愚問だとばかりに鼻を鳴らした。
音川の前に光の粒子が集まり、一つの光る裂け目が現れた。音川が手を伸ばしそうとしエリナが止めた。
「触れようとするな」
エリナは前を向いたまま言った。
「入っていいと我が言うもの以外には触れるな」
音川のすぐ後ろでミラーナが唸り声をあげた。
「もっと早く言え。尾の先が少し焼けたぞ」
「せっかちなやつめ」
音川が触れようとした裂け目の向こうでは激しい雨が降っていた。大きな雨粒は地面を激しく打ちつけ、濡れ始めの土が驚いたように跳ねる。瞬く間に雨に染まっていく中で、ただ濡れるに任せている少女の姿を音川は見つけ出した。
「ミーシャ……」
音川の前に開かれた裂け目は過去のミーシャの姿を映し出している。
「ここにあるのは別の世界か? それとも過去か?」
ミラーナは興味深げに角が焼けぬように慎重に裂け目の向こうを覗き見た。
「それは我が見た過去だ。あらゆるの記憶がここにある。あまり気にするな」
「そうはいっても……」
音川は目の前にある裂け目から目を離せなかった。光る裂け目に映し出されたエリナの視点であり、過去のエリナがミーシャに近づいていくところであった。彼女は疲れ切って汚れていた。
“その魔法。おまえが作ったものか。”
過去のエリナが感情の薄い淡々とした口調でミーシャに声をかけた。ミーシャが素早く振り向き、驚いた顔でエリナを見る。まるで最後の生き残りを見つけたか、亡霊を見ているかのようだった。
“幻……?”
“幻ではない。現実だ。”
エリナが一歩、近づく。ミーシャは体をびくりと震わせ、一歩遠ざかった。
“ダメ! 近づいたらあなたも死んじゃう!”
“我は簡単には死なない。……おまえのその魔法は女神とは違うな。”
“女神……。”
ミーシャは俯く、頬を伝う涙は雨にまぎれている。
“私を裁きに来たの?”
自分は死ぬべきなのだ。孤独のうちに死ぬべきだ。なのに女神が最後に来るなんて予想もしないことだ。
手や服についた泥に混じる黒ずんだ汚れは人々が崩れて巻き上げられた灰だった。裁かれて死ぬのなら自分も同じようにして死ぬべきだ。一方で死という響きは鋭く、ミーシャの胸に冷たい針となって深々と刺さり、拍動共に生への渇望を痛みとして伝えてくる。
こんな言葉に痛みを感じるなんて、私はなんて傲慢なんだろう。
“裁く? 何か勘違いをしているな。確かにおまえの魔法によって幾つもの文明が滅びたがそれをどうしようとは思わん。”
ミーシャは女神より伝えられた事実と自分の罪の重さに慄き、それでいて事実として受け止めるには大きすぎて、胸の中で噛み砕くのには労力を要するものだった。
自分の魔法がこの世界だけでなく他の世界へも害を及ぼした? 他の世界とは何?
心が簡単に受けきれるものではない。ミーシャは黙り、力なくその場に蹲る。二人を打ち付ける雨がより一層強くなり、まだ温かい地面と砕けた雨粒が霧となって視界を覆っていく。エリナはただ静かに再びミーシャが口を開くのを待つことにした。ミーシャは自分の頭上に転送魔法陣が広げられ、傘となっていたことに気がつかなかった。
霧はやがて二人を飲み込んで包むこんいった。雨音が遠ざかり、光の裂け目が閉じ、別の光の裂け目が現れた。乾いた岩と石ばかりの山沿いの狭い道が映し出された。エリナの前をミーシャが歩いている。
“どうして私と一緒にいるの……?”
“監視せねばならない。世界に広がったおまえの魔法は女神のものとあまりに違うためだ。それに発動した際に時空の裂け目が歪み、裂けた。我の魂もろともな。”
ミーシャは足を止め、手を組んで振り返らずに言った。
“ごめんなさい……。”
“謝るな。女神を裂ける存在などなかなかいない。誇ってよい。それに他にやることもない。少なくともおまえといれば退屈はしないだろう。”
“探しに行かないの? その……もう一つの魂を。”
“場所はわかるぞ。無限に存在する世界のどれかだ。”
“それはわからないっていうのよ。”
“今は、だ。おまえの魔力によって裂かれたのだからいずれどこか、おまえに近しい何かにたどり着くだろう。”
“それはいつ?”
“数年。あるいは数百年。または明日かもしれん。”
光る裂け目が輝きを失って閉じられた。
「あの館に我が魂が流れ着いたのは偶然だが、必然でもあった」
エリナは目を閉じる。
「そして幸運でもあった。時期がずれていればこうして音川にまた会うこともなかっただろう」
また一つ裂け目が開かれた。
そこには髪を黒く染め、背の高くなったミーシャがいた。どこかのビルの屋上におり、黒いスーツに袖を通し凛として立っている。音川の一番見慣れたミーシャの姿だ。指先を太陽の光にかざし、黒い爪が光を反射する様をエリナと共に見ている。
“それは何だ?”
エリナはミーシャの顔を見上げながら言った。
“これは私の力を抑えながら使うための物。作るのにずいぶん時間かかっちゃったな。名前は……『黒爪』ってことにしようか。”
“力は使わない。そう言っていなかったか?”
“今までは、ね。でも、そうも言ってられない。怖いけどやらないと。地球には魔法に対抗するすべなんてないんだから私がそれまで守る。地球の人が対抗できるようになるまでは妥協するしかない。あの子が。リーアはきっとここに来る。そう言っていたし、そう感じた。だから私が守らないと。ミラーナは、わからない。もしかしたら一緒にくるのかも。”
“皆を守るから『宮之守』か。慣れんな。それはあて字というものか? 少々強引のように思うが。”
“そう? いいじゃない。別に。”
“下の名の『絵里子』はエリナをもじったのか?”
“違うよ。うるさいな。”
光の裂け目が揺れてかすみ、閉じられた。また別の光の裂け目が音川の真横に開き、音川は覗き見た。
“ミーシャ……いや宮之守。我は時空を司る女神。癒しの女神は我とは別の存在だ。”
エリナが宮之守の座る机に置かれた数枚の紙を見ながら言った。エリナは素早く、文字を読み取り、鼻を鳴らして腕を組んだ。
“気に入らないの? 自分名前の付いた地名や建物がほしいって言ってたじゃない。セントエリナ病院。協力の対価を要求したのはそっちじゃない。いまさら白紙だなんて言わないでよ?”
“まぁ、いいだろう。”
“あとで院長にも会ってね。すごく良い人なんだから。”
光る裂けが瞬きをするようにゆっくりと明滅し、次の瞬間には暗い室内を映し出した。暗い色をした窓ガラスの向こうには無機質な灰色の部屋があった。味気ない部屋には灰色のデスクと椅子があり、一人の女性が座っていた。窓ガラスはうっすらとエリナの姿を反射して映しているが、窓の向こうの女性にはその姿は見えていないようだった。
「これは、私が捕まったときの部屋……」
椅子に座る女性は音川であり、過去のエリナはマジックミラー越しに音川を見ていた。
扉が開き、エリナの視線が左を向く。
“男の方は終わりか?”
エリナの退屈しきった声に宮之守は肩をすくめながら扉を閉め、デスクにファイルを置いた。一人の若い男の写真があり、エリナは併せて記載された小松康孝という名と、隣の欄に書かれた年齢性別、罪状を一瞬のうちに読んだ。政府機密データベースへのハッキング行為。重要施設への不法侵入とあった。
“その子と一緒になってやったんだって。”
宮之守はマジックミラーの前に立ち、向こう側に座る過去の音川へ視線を向けた。
“彼の方は小説のネタ探し。この子は行方不明の友達の探し。彼の方は好奇心と知識が。この子の方は目的のためには手段を選ばない精神が。どっちも対策室には必要。……真実と書いてまみ。いい名前だと思わない?”