宮之守の体を縛りつけていた糸が切れた。
赤い宝石のようなショートヘアが風になびかれて炎のように揺れている。黒いスーツは黒煙のようだ。埃と土に汚れた白いブラウスは灰のようであった。ふわりと落下する宮之守を佐藤は受け止めようと立ち上がるが、がくりと膝を落とした。彼の手は真っ赤に濡れていた。
羽が落ちるかのように宮之守は柔らかく地面に降り立ち、その場に力なく座り込んだ。浅く、心地よいまどろみが過ぎ去り、意識が呼び戻される。土と灰に塗れた手を開き、閉じる。体が軽く、力に溢れている。
「私は、まだ生きて……」
意識がはっきりと戻り、まだ生きているという実感が今の宮之守に落胆と悲しみとなって押し寄せた。
「気分はどうよ?」
呼びかける声に宮之守は顔をあげた。疲労と達成感にそまった男が力なく座っており、彼の腹からは血が流れ出ていた。
「はーあ。まじで疲れたわ」
痛みを堪えた苦笑いを佐藤は見せる。
「リーアとやり合うの結構きつかったぜ。まじで強すぎんだろあいつ」
「その傷……」
宮之守は駆け寄り、佐藤の傷を抑える手に自分の手を重ねた。
「早くしないと血が……!」
ふと宮之守は自分の手から黒く細い煙が立ち昇っているのを見た。
「待って! これは力が!」
「医療班! こっちにも来てくれ!」
佐藤の背後から隊員が叫ぶ。
「来ないで! ああ!」
宮之守が声を張り上げて隊員を制止し、佐藤も振り向いて手をあげ、彼らを止めさせた。
「止まれ、来るんじゃない! 小松、全員を下がらせろ」
『でも、それじゃ佐藤さんも室長も』
インカムの向こうから聞こえる小松の声を通し、佐藤は小松の表情を見た。きっと今は苦しい顔をしているに違いないと思いながら芯の通った声で一言口にする。
「頼む」
インカムから息を飲む気配を佐藤は感じ取る。
「勇者からの頼みってことでよ」
『……わかったっす。全員、撤退してください』
「これじゃ、佐藤さんが……! でも私には、私には誰かを助ける魔法なんて使えないのに……」
宮之守は立ち上がり、口を抑えながら後ずさる。
「なんだ? おまえ。あんだけ見え切って自分を殺せって言っといて俺の心配かよ。笑えるな。ざまぁみろってんだ。脅かしやがって。ハハハ!」
佐藤は乾いた笑いをあげ、疲弊しながらも優しい笑みを宮之守に向けた。
宮之守は目の前の男のこんな表情は見たことがなかった。ただの一度も、こんなにも穏やかな笑みを見たことは無かった。
「そんな、だって。私が死ねば。みんな助かるのに。だから殺して欲しくて」
「疑問なんだが。どうして自分で死のうとしなかったんだ?」
「試しましたよ。そんなの。なんども、なんども、なんどだって!」
「いや、そうだよな。悪い」
黒い煙が渦を巻き空に向かって立ち昇り始めた。宮之守の頬を大粒の涙が伝う。あたりに熱は無く。冷たい空気が流れ始めていた。光のない雷鳴が轟き、エルフの通ってきた巨大な裂け目は金属のこすれる不快な音を響かせていた。さながらそれは世界が悲鳴をあげているようであった。
「どんな短剣も肌を切る前に崩れてしまうっていうのに。だからもう誰かにやってもらうしかないじゃないですか!」
宮之守はさらに後ずさり、手をこすった。
止まれ、止まれ。私はあの時から何も変わっていない。優しい老婆を殺したときから。果物を持つ兵士を殺したときから。お父様とお母様が死んだ日から。
若い街路樹が乾いた音をたてて折れた。逃げ遅れた海鳥たちは方向感覚を失って地面に体を打ち付け。地面に潜んでいた虫たちが苦しみながら這い出して、足を折り曲げていく。
宮之守は佐藤より少し離れた位置に落ちる聖剣を見つけ出した。夜の闇の中で聖剣が遠くの夜景を小さく映し出して反射するさまが、宮之守には一際輝いて見えた。
「おい。待て」
佐藤の声を聞かず、宮之守はすがる思いで聖剣に駆け寄って拾い上げた。佐藤の胸が騒めく。
聖剣の柄にはまだ温もりの残っている。装飾のない簡素は刀身と鍔。実用重視の肉厚の刃はずしりとした重みがあり、佐藤の手を離れてもなお淡く光っている。磨き上げられた刀身には大小の細かな傷が刻み込まれ、佐藤がこれまで戦ってきた記憶がそこにあった。
傷の中にはレデオンとの戦いとリーアとの戦いによってついた新しい傷もあった。宮之守は思う。ここに自分が傷をつけることが無くて良かった。
「そいつは俺の剣だ。勝手に……持つんじゃねぇ」
佐藤の足にはもはや立ち上がって駆け寄り、聖剣を奪い返す力は残っていなかった。
「私に私は殺せないけど」
宮之守は目をつぶり、聖剣の刃を首筋にあてた。
押し込もうという意思に反し、手は躊躇して止まってしまった。
意気地なし! もう私は繰り返したりしない!
「佐藤さんのであれば!」
宮之守は震える手で柄を握りなおした。
「待て!」
佐藤の制止を振り切り、宮之守は刃を首に押し当てた。鋭い痛みに思わず力を緩め、柔らかな肌から垂れる赤い血が指を濡らす。宮之守の目論見通り、聖剣であれでば魔王を死に至らしめることができる。
痛みは恐ろしさを心の奥より引きだし、刃をかたかたと震わせた。
「私は死ななければならない」
宮之守は息を止め、一思いに刃を押し込んだ。
聖剣と首の肌の触れる場所から黒い煙が吹き出した。煙は圧力から解放された蒸気じみた勢いをもって宮之守の手から聖剣を跳ね飛ばして奪い去り、地面に深々と突き立てた。
「宮之守!」
吹き出した黒い煙は凶暴な渦の嵐となった。
佐藤が右手を伸ばす、その指先が黒くなり始めていた。
「どうして……。だって佐藤さんは……」
宮之守は口を抑え、嵐の向こうのにいる佐藤の黒ずんだ指を見てしまった。あの老婆と同じ、人々を死に至らしめた黒い力が佐藤の体を蝕み始めている。
「……これは」
佐藤は指を見て、乾いた笑いをあげた。
「どうして、どうして笑っているの! こんな、死んでしまうってときに」
佐藤は足に力を込めて立ち上がろうとしたがやはり叶わなかった。
「そりゃあ……嫌だろ。勇者の最後の姿が泣き顔なんてさ」
佐藤は体の中の魔力を使い果たしていた。そうなれば魔法を使えない人々と同じだ。佐藤には立ち上がって少しでも遠ざかる体力すらも残っていない。
「待って! 待ってください!」
雷鳴が轟き、風が嘶いている。渦を巻く黒い煙は濃くなっていくばかりで、佐藤の姿は次第に濃いカーテンの向こうに隠されていくようだった。ついに煙はごうごうとした音をたて佐藤を覆い隠し、一瞬の隙間から見たときには佐藤の姿は消え去っていた。