駅の改札をくぐると、懐かしさが体中を駆け巡った。
その瞬間、蓮美は「ここが帰る場所なんだな」というのを心で理解した。
「蓮美ちゃん」
「やっ! きゃー! 千春ちゃん!」
改札正面の広場にたたずむイケメンが、最初はどこぞのモデルか何かだと思って見過ごすところだった彼女は、その正体が幼馴染の大親友であることに気づくと、驚きと喜びとで飛び上がりながら、一目散に抱き着いた。
「
「まあ、見ての通りね。蓮美ちゃんはなんていうか、垢抜けたね?」
「そうかな?」
大学在学時代は、わりと落ち着いたガーリーめのファッションを好んでいた蓮美だったが、今の彼女はラフな白Tにデニムのホットパンツという、田舎の地方都市にしてはやや刺激的な装いだ。
髪も、染めているのか、抜いたのか、はたまたアメリカの紫外線にやられたのか、亜麻色に近いほどまで明るく染まり、出会いがしらの溌溂とした印象に華を添えていた。
背格好は変わらないのに、一気に大人びた印象になった幼馴染に、千春は時の流れを感じざるを得ない。
「車、用意してるから。お昼は食べた?」
「うん。朝は成田でお寿司食べて、お昼は東京駅で買った駅弁を新幹線で。牛タン弁当」
「結構ガッツリいったね」
「なんか、日本来たーって感じがして。久々にお腹ペコペコになっちゃった」
他愛のない話をしながら、駅ビルの駐車場で千春の車に乗り込む。
パールホワイトの街乗りコンパクトカーは、見た目に反して中身は思ったよりも広く、蓮美はキャリーケースを中心とした大量の荷物を後部座席に詰め込むと、自分は助手席の扉へ手をかけ……ようとして、今まさに運転席に乗り込もうとしていた千春に、悪戯な笑みを送った。
「運転していい?」
運転席を変わった蓮美は、駐車場の自動精算機に四苦八苦しながらも、無事に山形の街中へと滑り出す。見知った街を、運転席という見知らぬ視点から見渡して、彼女は新しい冒険にでも出たかのように目を輝かせた。
「日本の道路は運転しやすくて気持ちいいね!」
「あっちはどんななの?」
「街中はもう、歩いたほうが早いんじゃないかって感じ。車も人もバイクも混然一体でカオスだよ。車線変更とか雑だし。郊外は車少ないからまだマシだけど、今度は整備がね、行き届いてなくてガタガタだったり」
「なるほどね」
「あと日差しがね、すごくキツイの。目に刺さる感じ。日本も日本でキツイけど、ベクトルが違うって言うか。ほんとに真っ白で前見えないの。あっちの人、みんなサングラスかけてる理由が分かったよー」
言いながら、蓮美は大きなサングラスの向こうで笑みを浮かべる。
「千春ちゃんは、どう? お仕事」
「うーん、毎日女将さんにこってり絞られてるよ。日本の名宿だからね。ホスピタリティに厳しくって」
千春は大学卒業後、涼夏の実家が営む温泉旅館で働いている。
もちろん涼夏のコネ入社というわけではなく、他の同僚同様に新卒として入社の応募を行い、幾度かの面接を経て、正々堂々と勝ち取った席だ。
県庁か市役所の地域振興を行う部署に務めるのも候補にあったが、若いうちは下働きのつもりで現場で汗を流してみたいと思い、選んだ道だった。
加えて、公務員になってしまえば音楽活動が大っぴらにできなくなってしまうのも、検討の種になっている。
ほかのメンバーに関しても、蓮美は千春づてでその後の話を聞いていた。
まず緋音は、大学在学中から彼女の姉が勤めるファッションブランドのモデルとしてデビューを果たしていた。もともとの美貌に比べて、
住まいも東京に移し、今は姉と共同で購入したマンションで二人暮らしをしていると言う。
緋音ははじめ、姉に恋人でもいたら、またはできたら申し訳ないと、一緒に住む話を渋っていたが、今のところそんな相手のいない仕事人間の姉と、相変わらず中身は内気なままの緋音が東京で一人暮らしをするのは心配すぎるという過保護な両親の提案もあり、姉妹二人三脚の生活で落ち着いた形だ。
栗花落は相変わらず、クラブで働きながらRAiNとしての活動を続けている。
もっとも、キャバ嬢としてのキャリアはそろそろ引退を考えるころで、少しずつRAiNの方に活動の比重を移しているという。
近年では売り出し中のアーティストグループや、バーチャルシンガーなんかに曲を書きおろして、楽曲提供者としての地位を確立しつつある。
一方で、RAiN自身の曲もメジャーレーベルから本格的な売り出しを始めているものの、栗花落自身は『RAiN』としてメディアに出演するつもりはないようで、相変わらず謎の覆面アーティスト(バイオリニスト)として活動を続けていくつもりのようだ。
そして涼夏は――
「あっ、ディアロス」
車載ラジオから流れて来た曲を耳にして、イントロだけで蓮美が反応する。
涼夏は、現在はディアロストサマーのベースとして、再びメジャー街道をひた走っている。
ギター&ボーカルを務める向日葵は、相変わらずイクイノクスとの二足わらじだが、それぞれの音楽性には明確な違いを示して全く別のファン層を獲得している。
「この間、こっちのフェスにイクイノクスが出てたよ」
「へえ。海外展開を始めたってのは本当だったんだ」
コテコテのハードロック傾倒であるイクイノクスは、国内人気を引っ提げて、今は本場アメリカのロックシーンで地位を築こうとしている。もちろん、米国では〝ジャパニーズ・
そこから裸一貫で海外ロックシーンに殴り込み、実力で屈服させている。
向日葵らしいなと、蓮美は心の中で苦笑する。
実はイクイノクスが訪米した折に、蓮美はちょうど別件で訪れていたシカゴで、向日葵と会っていた。
旧友と再会したノリですぐに打ち解けた中で、彼女の口から、ディアロスのメジャーデビューと涼夏の話を聞いたのだ。
「ディアロス結成時の約束は、もうすっかり形骸化しちゃってるけどね。けど、アタシたちはそっちのほうが性に合ってるわ。アタシももう、受け止めるだけの器があるし」
約束とは「バンドの方向性についてすべて向日葵に従う」ということだが、そんな内情を蓮美が知ることは無く、それでも涼夏が音楽を続けていること、続ける場所があることに心から安堵した。
「アンタは、いつ日本に戻ってくるの?」
「どうかな。私自身、まだ胸を張って戻れるって感じじゃないし」
「そんなこと言って、
「それは、うん」
蓮美は、はにかんで頷く。
例の巨人――〝PJ〟にプロモートされつつ、アメリカでの音楽活動自体は順調に進んでいる。
とはいえ、慣れない土地での生活や言葉の壁、本場のジャズの巨匠による厳しいレッスンの日々で、毎日があっという間だ。
もちろん、成長はしているのだろうが、それを噛みしめるような時間も余裕もなく、時間だけが過ぎて行ってしまっているようにも感じられていた。
「単純な帰省は?」
「忙しくて。それに東海岸からじゃ航空券も安くないし」
PJの下でそれなりにまとまった額を稼がせて貰ってはいたが、アメリカの物価ではなんだかんだで生きているだけでお金が湯水のように消えていく。
女性の、しかも慣れない海外でのひとり暮らしなら、住む家だってそれなりに治安がよくセキュリティに富んだ――ようは家賃の高いところに住まわざるを得ない。
音楽家としての学びは多大にある一方で、生きるために音楽をしなければならないという、あまりよくない悪循環に陥りかけていた。
そんな蓮美の様子を慮ってか、向日葵は訳知り顔で頷き返す。
「わかった。じゃあ、アタシがお膳立てしてあげる」
「……はい?」
詳細を語らないまま、彼女は帰国していった。
それから蓮美のもとに、日本から航空券つきの招待状が届いたのは、向日葵との話なんてとっくに忘れかけていたころの話だった。
駅から一時間半ほど車を走らせて、ふたりはようやく目的地に到着した。
車内で一度、宿泊先である
「わぁ、今年も盛況だねぇ!」
会場であるスノーパークに足を踏み入れるなり、蓮美はまたまた目を輝かせた。
スノーパークとは言え、季節は残暑――もとい秋真っただ中。青々としたゲレンデの上を、沢山の人々が右へ左へと行きかう。その大半はラフなTシャツに、日差し避けのハットをかぶり、タオルを首に巻いた姿で、ある意味この場においては正装ないし戦闘服と言って良いものだった。
「なんだかんだ、竜岩祭もあの時ぶりだね。ああ、私は仕事で何度か足を運んだけど」
「旅館の送迎があるもんね」
「ああ、でも、今日は無理を言って休みを貰ってるから、一日蓮美ちゃんのことエスコートできるよ」
「えへへ、嬉しい。ありがとう」
それから飲食ブースで飲み物と軽食を買い、それぞれのステージを見て回った。
目的のバンドがあるわけではなく、良さげな音が聞こえてきたらふらふらと誘蛾灯に吸い寄せられるように見に行くだけだが、それはそれでフェスの楽しみというものだ。特に、こういう国内有数のフェスほどの大混雑がない、地域密着型のフェスならではと言ってもいいかもしれない。
「千春ちゃん、楽しいね!」
満面の笑みでタオルを振る蓮美を見て、千春はそれだけで今日彼女のエスコート役を引き受けてよかったと安堵した。
突然向日葵から蓮美を竜岩祭に呼ぶ旨の連絡が来て、その意図を聞かされた時には心配もしたものだが、遠く太平洋を隔てた海の向こうに離れて、直接支えることができなくなってしまった分、今日くらいは親友としての務めを果たそうと心に決めていたのである。
「そろそろテントに行こうか。準備しないと」
「え、もうそんな時間?」
蓮美が時計を確認するなり、名残惜しそうにステージを見つめる。
「イベントは明日も明後日もあるから」
「そうだね。私も、お仕事モードに入らなくっちゃ」
言いながら、ぺちぺちと自分の両頬を叩いた。
遠くアメリカからわざわざ一時帰国をしたのだ。もちろん、ただ遊びに来たわけじゃない。
竜岩祭運営委員会から直々に、アメリカのジャズシーンで活躍する地元出身の若きサキソフォニスト〝ハスミ・ヒイラギ〟として出演のオファーを貰ったのだ。
もちろん、その口利きに向日葵が噛んでいたのは言うまでもない。
控えテントに向かうと、蓮美にとってはこれまた懐かしい人の姿があった。
彼女は、この自然味溢れるスノーパークには実に不釣り合いな、ラメ入りの青いドレスに身を包んで、そこだけ異世界から切り取ってきたかのように嫋やかに佇んでいた。
「栗花落さん!」
「お久しぶり」
再会を喜ぶように、ぎゅっと温かいハグを交わす。
情熱的なスキンシップが増えたのは、蓮美もまたアメリカという地に染まってきた証だろう。
「蓮美ちゃんのサックスソロでも十分魅力的だけど、フェスって場を考えたら流石に味気ないからね。私がドラム、栗花落さんがピアノで、少しでも盛り上げさせてもらうね」
「久しぶりにふたりとセッションできるの楽しみにしてたんだー! 今日はよろしくねっ!」
隠しきれない喜びを露わにしながら、蓮美が空輸した楽器ケースを空け、愛用のテナーサックスのセッティングを始める。
その背中を温かく見守りながら、千春と栗花落はアイコンタクトで互いに頷き合った。
ほどなくして、蓮美のゲストステージが開幕する。
とっくに陽が落ちて闇に包まれたスノーパークに、ギラツいたステージのライトに照らされて、サクソフォンの金色の光沢が躍る。
もともと蓮美の演奏は、小さな体躯に似つかないダイナミックな演奏が持ち味だったが、アメリカでの修行で数段力をつけた今の彼女は、身体の小ささを感じさせない――いや、小さな身体が巨人のように大きく錯覚してしまうほどの、伸びやかでいて、それでいて重く深みのある、まさしく〝巨星〟と評するのに相応しいプロの演奏へと変貌していた。
本来、リズムでリードするはずのドラムが、逆にリードされてしまうような感覚の中で、千春は親友の成長をこれでもかと実感する。
今なら、突き放すようにしてでも蓮美をアメリカに送り出した涼夏の気持ちが分かるような気がした。
この才能を、日本なんて言う小さな島国の中で埋もれさせてしまうのは、本当に惜しいことだと思った。
「ありがとうございます!」
曲を終えて、蓮美はキラキラとした汗をほとばしらせながら、万雷の拍手が鳴り響く客席へ笑顔を振りまく。
「それでは、名残惜しいですが次で最後の――」
バツンッ――その時、不意にステージの証明が落ちて、辺り一帯が闇に包まれた。
観客はもちろん、蓮美も驚いて、戸惑いながらあたりを見渡す。
漆黒の中で、低く、唸るような弦の音が響く。
視界を失った中で、残暑の湿った空気を震わせる音は、耳だけでなく口や鼻や毛穴まで、全身のあらゆる穴という穴から身体の中へと染み込み、魂を震わせるかのようだった。
「この音って――」
蓮美の頭が理解するより先に、ライトが一灯だけ輝きを取り戻す。
文字通り、スポットライトとして照らし出したステージの片隅には、ひとりの女性のシルエットが映し出されていた。
「え……あ……緋音さん?」
頭がすっかり別の人物のシルエットで満たされていたところに、突然横殴りのパンチを食らったような気分だった。
大学時代の彼女ならば絶対に着ないような、ヘソ出しチューブトップにエナメルのパンツ(ともに姉のファッションブランド)に身を包んで、すまし顔で
そうしてステージ中央で主役の座を奪うように立ち止まると、ぽかんとする蓮美に笑顔を送ってから、ステージの下座を力強く指さす。
指した方向に、もうひと筋のライトが灯った。
そこには、何年たっても変わらず愛用しているムスタングベースを引っ提げて、ステージ前方のスピーカーを大胆に踏みつける涼夏の姿があった。
「涼夏さ――」
思わず声をあげそうになって、蓮美は自ら口を噤む。
自分が今立っている場所がどこなのか理解したうえで、プロとして、言葉を飲み込んだのだ。
涼夏もそれを理解して、何も言わず、ただ挑戦的なガンを飛ばして蓮美に顎で合図を送る。
未だに状況を飲み込めない蓮美は、ステージ上の仲間たちを見渡すが、みんなどこかしたり顔で頷き返すばかりだった。そればかりか、栗花落がいつの間にかピアノの陰に隠してあったバイオリンを手に取ったのを見て、ようやくこの大舞台で繰り広げられていた、一連の茶番に納得する。
そっちがその気なら――挑戦を買うように、蓮美はMC用のマイクを手に取った。
「ここは、私の生まれ育ったホームです。でも、今はもう、アウェイのつもりで立ってます。地元の人たちは、昔の仲間だって誰も知らない、新しい〝私の音楽〟を引っ提げて、乗り込んできました」
そこまで言って蓮美は、決闘の合図の手袋のように、頭に差したサングラスを脱ぎ去って、客席へ向けて放り投げた。
バチバチと、耳の後ろが沸き立つように熱くなって、会場中の、そしてステージ中の熱気が血管の中を流れているかのようだった。
ふたたびライトが全灯したステージの上で、蓮美はぎらついた瞳でめいいっぱいの笑顔を浮かべて、客席へと啖呵を切る。
まさしく決闘だ。
それが、彼女たちの音楽なのだ。
――