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34.吐露

 あまりに長い180拍が過ぎた後、王者と勇者は荒い息に跳ねる身を互いから引き剥がすかのように振り向かせ、ステージの両端へ戻り行く。


「走るな血が抜ける!!」

 花子の声が聞こえているものか。義人はふらつく足をばたばた鳴らし、倒れ込むように椅子の上へ座り込んだ。

「ぁ……ぅぇ」

 まともに息ができていないのは、呼吸する力すら損なっていればこそか。

「ヨシト氏、拭います!」

 聞こえるよう声音を張って告げ、セルファンは王者の背をタオルで包み込んで、汗を吸い取らせた。

 冷え切った脂汗でタオルはすぐにそぼり、取り替えてもなおぐしゃりとそぼって。

 ああ、この冷たさは、流した血の量をそのままに表しているんだ……!

 実感させられたセルファンが思わずぞくりと震えた、そのとき。

「あと、どんくらいっすか?」

 休憩があとどれほど残っているか、義人がか細い声音で問うてきて、理解させられた。

 ヨシト氏は、闘う気だ。

 泣きたいような怒りたいような喜びたいような、わけがわからないまま叫び出したくなる衝動が喉を突き上げるのを無理矢理に飲み下し、「水は要りますか? ぬるま湯を用意してあります。ああ、そうだ――」と声をかけ続けた。今、自分にできることは王者の意識を保たせる助力だけだから。

 自分の無力がもどかしくてたまらない。

 でも、あきらめるものか。

 最後まで支え、見届ける。

 あらためて意を据えて、彼は新たなタオルで友を包み込んだ。わずかにでいい。その身にぬくもりを灯せるよう、祈りを込めて。


 ありがたい。心を支えるのは心だ。あたしじゃそれはできないしね。

 セルファンのサポートに感謝しつつ、花子は義人の傷の深さを確かめ、彼と、風に乗せてシャザラオ陣営へも告げた。

「血を止めるぞ。傷は治さない、止めるだけだ」

 シャザラオが右手を挙げて応えたことを確かめた後、細く編んだ術式をもってだくだくと流れ落ちる血を押し止める。いったいどのような式なのかは不明だが、傷は今も開いたままだ。


「あざまっす。マジ痛てーし、なんかクラクラするっすわー」

「当たり前だろうが! これだけ出血してるんだぞ!」

 ぶん殴ってやろうと振り上げた拳骨はさすがに引き止め、代わりにぴしゃりと叱りつけた花子だったが。ここで表情を引き締め、義人へ問う。

「勇者に斬られたのは手の力が減ったせいだ。君、なにか心当たりはないか?」

 ここまで考え続け、やっと捻り出した推論は実に頼りない代物だったが、しかし。

 そもそも力の遣えない義人になにができるはずもないのに、やはりどれほど考えても彼のせいだとしか思えなくて。

 これに対して当の王者はといえば、

「あー、俺、あんま力出さねーでくれって手に頼んだっす」

「は!? なんでそんなこと――」

 そこそこ裸なのに全部剥き出すなんて自殺行為以外のなにものでもないだろうが! 勇者が剣を握った以上、もう公平でも公正でもないんだよ! だってのに自分をもっと追い込んでどうする!?

 言葉にしきれなかった分を視線に詰め込み、後輩の目へ突っ込むが、義人はまるで察する様子もなくぼんやりと言い返した。

「ガチのガチなんすよ。ラオさんがいてくれっから俺、俺ばっかじゃねーんで。あー、先輩もセルさんも犬もいてくれてんすよね」

 義人の言っていることが花子にはまるでわからない。わからなかったが、それでも。やわらかく笑んだ彼の顔に、ぞくりと背筋を震わせるよりなかった。

 失血やアドレナリンに浮かされているだけの顔じゃない。この男は、心の底からうれしいのだ。


 なんとか叱りつけてやらなければと逸る。しかし、ただでさえ単純バカな上に強敵との闘いに耽溺し、さらに正気まで薄らがせている後輩へ、生半な説教が届くはずはない。

 なら。どうする?

 このバカへわからせるには、いったいどんな言葉を編めばいい?

 数瞬悩んだ花子は高まりかけた声音を低く抑え、そろそろと語りかけた。

「……これだけはちゃんと聞け。勇者が君の手の届くところに剣を振り込んでるのは、そこしか攻めないって思い込ませるためだ。そろそろ狙ってくるぞ。自分の低さを最大に生かした臑斬りを」

 ボクシングに疎くとも、戦闘経験はそれこそ常人の数百倍は持ち合わせていた。だから言える。下へ行くほど人体の防御意識は薄れ、よもやの攻め手を喰らうのだと。

 義人はボクサーでありながらなぜか下体への攻めを捌く技術を備えているようだが、それでもだ。意識を上へ偏らせられてしまえば下への攻撃で虚を突かれてしまいかねない。

 あたしの説教が届かなくても、試合のことだったら届くだろう。っていうかちゃんと受け取れ! 頭悪くてもプロだし王者なんだから!


 渦巻く思いを噛み殺して花子が紡いだアドバイス、それを最後までおとなしく聞いていた義人は椅子からふらりと立ち上がり、目をしばたたく。

「なんか先輩、マジでセコンドみてーっすね」

 表情が締まり、握り込んだ拳より不可視の炎が噴いた。

 それこそは彼の「ガチ」に呼応し、今一度昂ぶった手の力。

「あんまり役割増やしたくないんだけどね」

 花子は口の端を歪めて術式を向かわせる。それは抵抗なく初代王者の手の内へ染み入り、力の猛りをなだめすかした。

 その手がいつどうなるのか、正直あたしにだってわからないんだ。でも!

 唐突に、ばぢん! 義人の両頬を平手で挟みつけ、額に額を合わせて。

「君は強い。正直なんでなのかわからないけど、強い。あの強い勇者をぶっ倒して王者の強さってやつを証明してこい」

 手のことは置いておくとしても、怪我の具合を考えれば早々にタイマンを終わらせたいのは、付き添いとして当然の心情ではあった。

 そして勝利さえできたなら、大抵のことはその喜びによって抑え込める。それこそ現実を突きつけられる瞬間にも――そう、きっと乗り越えられるから。

「押忍!」

 花子の思いに気づかないまま、義人は強く応えた。

「ラオさんの顎に一発ぶち込んできまっす!!」

 ああ、だからどうして君は敵に聞こえる大声で言うんだ。

 花子の嘆きを置き去って、義人はステージ中央へと向かう。


 場の片隅からその背を見送った犬は、ため息をつくようにあくびを漏らしてとろとろと目をしばたたかせた。

 その仏頂面からは思考も感情も窺えはしなかったが、それでも。

 目を閉ざすことなく、義人を見つめ続ける。




「勝て」

 椅子にしがみつくようにしてなんとか姿勢を保つシャザラオ、その左肩を軟膏で粘らせた包帯をもって固めつつ、同族ならぬゴブリンが告げた。

 彼もまさか王者が彼に剣を取れと促すなど、思ってもいなかったのだ。

 が、そのおかげでただひとつきりであった選択肢に新たな、それも喜ばしいものが増えた。迷わず選び取るべきであったし、それ以上に。

「王位よりも勝利を獲て欲しいのだ、我らが勇者に」

 シャザラオがどれほど勇者らしくあることへ拘り、与えられた責務を直向きに全うしてきたものか、他氏族ながら知っていた。

 そして彼が一度たりとも剣を抜かずに来た理由が、刃と共に武辺の心根を封じるためであったことも。

 シャザラオこそは氏族を越えて尊敬できる、最高の勇者。

 だがしかし。

 誰の命を奪うことも奪わせることもなく、ゴブリンの先を拓く。ただそれだけを志し、己の有り様をもって体現してきた彼が、ついに剣を抜ける相手と出会えたのだ。同じ武辺として妬ましくなるほどにまっすぐで強かな強敵と。

 最後まで己を尽くしてこい。その上で、勝て。そうと願える機をもらえたことに心から感謝するぞ、ヨシト殿。

 胸中で唱えた彼に、シャザラオは薄笑みを向けて言った。

「約束はできんぞ。ヨシト殿は拳で打ち合うだけの闘士ではありえんからな」

 反応速度だけの話ではない。義人は明らかに、脚への攻めを意識できている。

 ここまで臑斬りを遣わずに来たのはまさに決め手を隠すためだったが、ここから出したとて届くものかは怪しいところだ。

 しかし。

「それでも己は負けん。己が負ったゴブリンすべてのために」

 ゴブリンを負う――思えば、口先で囀ってきたばかりで、実感できてはいなかった。

 その思いが今、確かな重みをもって胸の芯に据わっていて、感じる。この重みは縛めなどではない。己を己として立たせる力であり、芯なのだと。


「ラオさんの顎に一発ぶち込んできまっす!!」


 ああ、ヨシト殿が奮えているな。

 すばらしく、おそろしい王者だ。汝と対するだけで己は震えあがる心地だが――

「己はヨシト殿の歩を断ち斬り、喉元に刃を突き立てるぞ!!」

 吼え返して飛び出した。




 静寂には程遠い沈黙という名の喧噪のただ中、先手も後手もなく同時に繰り出した右ストレートとアッパースイングが交差し、そして。

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