右ストレートとアッパースイングが交差し、互いに的を外して行き過ぎた、その直後。
義人は右へ踏み抜け、シャザラオは床へ手をついて潜り、互いに半転。今一度右スマッシュ――アッパーとストレートの間の軌道を通すパンチ――と水面蹴りとを交差させて。
「っと!」
前に置いた左足を引き抜き、蹴りをよけた義人は打ち出しかけた右拳を止めて退いた。
対してシャザラオはすぐに追うことなく、わずかな間を置いて前へ出る。その一拍に満たないリズムのずれが王者の回避を遅らせ、
「ふんっ!」
噛み潰した気迫を噴き、跳ねたシャザラオが王者の軸たる左脚へ回し蹴りを打ち込んだ。それは全き本気で放った囮。本命は、そう。
蹴りの下へ隠した刃だ。
来たぜ!! 固まりかけていた身を無理矢理に吹き抜いた息で緩めつつ左膝を曲げ、蹴りをブロック。同時に真下へ左拳を打ち下ろし、臑を食い破られる寸手で刃を墜とした。
剣とともにシャザラオの身が下へ押しやられる。
崩れきった姿勢をここから立て直すことはかなわない。倒れ込み、致命打をもらって、終いだ。
――させるものかよ!!
落ちるよりも先に額を振り落とし、床へ叩きつけたシャザラオは、頭頂を支点に前方へ身を回転させ、踵を振り落とす。
空手に云う胴回し回転蹴りが、虚を突いて王者の首筋を刈る、そう思われたが。
踵が空を切る。
踵が下がるにつれ視線がもたげられ、ついに捉えた。今、己の真横に在る王者と、打ち出された右拳を。
しま
った。思い切るより先、捻り込まれながら彼の顔面へ突き立った拳に、後悔と驚愕とを微塵に叩き壊された。
シャザラオの回転が始まったと同時、義人は左斜め前へと左足を送り出していた。
勇者の意図を読んだわけではけしてない。肌をひりつかせた慄きがそうさせただけのことだ。
そうして振り下ろされた踵を見送り、振り上げられる頭を見れば、為すべきことが決まる。
果たして振りかぶって撓めに撓め、打ち下ろした拳に捻りを加えた、言ってみればコークスクリューオーバーハンドブロウを突き刺した。
「これでっ」
拳へ返る芯を打ち抜いた応えを、さらに捻り込みながら突き抜いて、
「どぉだぁーっ!!」
振り抜いて。
シャザラオを文字通りに撃墜したのである。
床に叩きつけられ、バウンド。
今一度叩きつけられて今度は跳ねきらず、横倒しに倒れ込んだシャザラオが「ぁ――」、曇った声音を漏れ出させた。
絶望的な頭痛はあれど、これは瘤ができたためであり、分厚い頭蓋骨は割られずに持ちこたえてくれたらしい。加えて今の衝撃で飛ばされた意識は取り戻せた。まさに不幸中の幸いというものである。
なれど脳をシェイクされたダメージは深刻であり、指先から爪先まで、細かな痙攣を繰り返すばかりで思うようには動かなくて。
己は、負ける。
悔いはすまいさ。心より讃えるべき王者と、ここまでの闘いを演じられたのだ。むしろ誇らしくあろうよ。それにこれで、ヨシト殿を……
勇者よ立て!!
我らが勇者よ、頼む……勝ってくれ。
どうか、どうか勇者に力を。
シャザラオ!! シャザラオ!! シャザラオ!!
ああ、同胞が己を呼んでいる。
こうも惨めに転がるばかりの己を、なおも信じてくれるのか。
そうか。
そう。
そうだ。
同胞の澄んだ思いを感じた心に、不可思議なまでの熱が湧き立った。
それは力だ。
己ひとりではけして掻き立てることのできない活力、勇者と呼ばれる者のみが奮い立てられる、強引に表すならば勇気であったのだ。
「そうだ」
痙攣を押し退けて立てた爪先でもって、床を“噛む”。
「己は」
疲弊感に酷似した痛苦を噛み砕いて、上体を引き上げた。
「立たねばならん」
右手に今なお未練がましく握り込まれている剣を担ぐように構え、身を据えて。
ゴブリンの太い歓声を背に受けながら、じりと右足を躙り出した。
ヨシト殿。己は今、生涯最高に昂ぶっているぞ。
ただのラオからシャザラオへ成り果せて後、己は己を抑え込み、縛りつけて生きてきたよ。
だが、汝だ。汝が己が縛めを解いてくれた。
この世界へ来てくれたことを心の底より感謝する。
誇りを隠すことなく剥き出し、奮うまま振るえる武辺の歓喜、ガチのガチを教えてくれた汝に、己を尽くして示したいのだ。
そして同胞よ。
汝らの信こそが己は勇者と成らせてくれること、ようやく心得たぞ。
勇者たることを責務などとはもう言わん。己の本望を果たし、汝らに応えたい。
故にこそ負けられん。
「己は、負けん!!」
あれを喰らって立つのか!
勇者の揺るぎない闘志を見せつけられた花子は愕然と目をしばたたく。
かつて決闘の場において、幾度となく目にしてきてはいたのだ。意志の力というものが主に限界を超越させ、定められていたはずの結末を覆させる様を。
だが、これほどに強く太い力を見たことはなかった。
理由は明白だ。ゴブリンは今、勇者の勝利を願っている。本来であれば赦されざる願い……故にこそ彼らは奮い、果たして勇者を奮わせたのだ。
後輩くん、君は最悪の失敗をしたぞ。どうするんだ? どうしてくれるんだ? 本当にもう、どうすればいいんだ!?
「ごおっ!!」
ステージを揺らす強い踏み込みをもって振り下ろした剣は王者のバックステップで躱される。
が、焦りはしない。なぜならこれは、正しく為された予備動作であるのだから。
剣を止めず、それを握り込んだ拳を床へと叩きつけたシャザラオが横薙いだものは刃ならず、役に立たなくなった左腕であった。
それは支えの骨が折れていればこそに伸び、強烈な遠心力を生む。
「ぐぬぅうぅぅっ!」
身を押し固めようとする激痛。されど彼はそれをすら振り切り、身を逆立てた。
この痛みこそ、苦しみこそが代償! この程度でただひとりの男に負けたくないというだけの我が侭を貫けるならば、喜んで支払おうぞ!!
一方、義人は高く振りかざした右拳を打ち下ろすときを計っている。
倒れ伏した相手を殴りに行く術を知らないわけではなかった。そして、それをしなかったことで、セコンドから猛烈な叱責を受けてもいる。
『死にたいのかバカ王者死ね!! やる気がないなら死ね! あたしが殺してやるからありがたく死ね! 死ぬまで殺してやるから死ねぇっ!!』
うん、死ぬと殺すしかなかった。実際、彼女のドラゴンフィストで殴られたら一発で死ぬか殺されるか、二択に見えて一択の末路を辿るだけだ。
しかし。
だとしても。
自分の誇りを自分で折りはしない。
しかも勇者はカウント8で立ってきたのだ。結果としてここまで追い詰められようとも悔いなどあろうものか。
後でするから後悔っしょ。だったら後んなる前になんかうまいことやったらそんでよしっ!
しかして伸ばした右拳は風車のごとき回転蹴りにあえなく弾かれて。
あ、これやば!!
義人の脇腹へ、重く鋭い踵が深々とめり込んだ。