「ルールっすか」
義人の顔色が変わる。
彼ががっぷりと餌へ食いついたことを確かめて、花子は「その通り」、指3本を立てた右手を挙げてみせた。
正直なところ、餌を無視して後悔に浸っていて欲しい気持ちもなくはない。彼へ掟を託せば彼女にとってはおそろしく都合の悪い結果が投げ返されることとなろうから。
されど、王者と勇者の一幕を見て、彼女は確信してしまっていた。
後輩くんは義理とか人情とかであっさり死ぬ。
どっちも彼が勝手に義理っ! 人情っ! って思い込んでるだけのものだけど、彼にとってはそれがなにより大事な義理だし人情なんだよなぁ。
なんとかしたいとこだけど、ううん、やっぱり過去のことがわからないとどうにもならないか。でも触るとやばそうだし……
と、今はそれでもろじゃないと、先ほど思ったばかりではないか。
ここで思考を一旦断ち切り、おとなしく待っていた義人へ指を折りながら説く。
「王者が決めていいルールは基本的に、決闘の日時、遣っていい武器の種別、勝ち負けの条件だ」
「日時、武器、勝ち負け」
繰り返してみて、義人は噛み砕く。
時間は、試合時間のことか。ここが異世界ということを考えれば、試合時間は1000年などと言い張り、王者の死亡を待とうとする挑戦者が出てくることもないとは言えまい。
武器に関してはそのままだとして、最大の問題である勝敗条件を取り沙汰する前に、はっきりしておかなければならないことがあった。
「先輩シツモンっす。なんかルール変えたら竜乱入とか、ねーんすよね?」
竜がどのような存在かは未だ知れていない。競技場で竜化した花子の迫力はおそろしいのではあったが、あの程度でこの世界に在る全種族を無条件で従わせられようはずがない。
本物はいったい、どれほどのものなのか。
どこにいて、どうしたら出張ってくる?
「なんでいきなりそんなこと訊くんだい?」
花子が差し込んだ疑問は当然のものだったが、義人は頑なな顔を左右に振って、
「まだ言えねっす」
大方のところは察しているし、それは花子にとって都合のいいことでもあるのだが、ともあれそれ以上訊かずにうなずいてみせた。
「ない。竜の干渉を受けるとすれば、それは決闘前に王者が定めた掟が、王者の意思によらず破られたときだ」
これはあたしと初代王者しか知らないことだけどね。言い添えて、彼女は後輩へ苦笑を投げる。
試合時間も得物の有無も勝敗条件も王者が決めていい。しかも“王者の意思”があれば決闘半ばでルールを変えようとも竜は見逃す。
王者と挑戦者、ひいては人間も異種もその他の何者であろうとも、決闘中に覆せぬものだからこそ掟=ルールには価値があるはずなのに、だ。
「よくわかんねーんすけど、なんか王者、ごひいきされてねっすか?」
確かにあのときシャザラオへ剣を取らせたのは義人だし、そこに私心はなかった。
だとしてもだ。あまりに王者が有利過ぎはしないか? いくら頭脳労働に不向きな義人でも、それはさすがに察せられる。
「それはもう依怙贔屓されてるよ。竜は初代王者と交わした特別な約束を交換条件に、彼の要求をそのまま掟として定めたんだ」
そして掟を遵守することを竜の約束とし、全種族へ通達した。
王者を倒さば竜がその種の繁栄を約束する。ただし王者の定めし掟を遵守した上での勝利でなくば認めない。掟破ることあらばその者のみならず種のすべてを滅す。
……実に狡いやり方と言えよう。竜にとってなにより価値のあるものがなにかを調べ上げ、それを対価に王者有利な条件を整えさせたとなれば。
が、それだけ王者も必死であったのだ。
異種の脅威に怯えながらなんとか生き延びていくよりなかった人間の先を拓きたい。その一念で己を駆り立てて。
果たして人間は竜の加護を受け、エルバダの地を得た。
だというのに彼は約束を果たせぬまま死んで。
その魂の行き先など知れようはずはなかったが、それこそ約束手形たる両手のみを遺し、無責任に失せたのだ。
もっとも、いくらかはそこにいるみたいだけどね。
魔力を含めた視線を突き立ててみても、両手は反応することなく沈黙を保つ。
まあ、今はそれでいい。どうせ遠からずまた対面することとなる。次のタイマンが始まったそのときに。
気を取り直し、花子は義人へ問うた。
「時間については3分やって1分休む、ボクシングルールでいいんだろう?」
「12ラウンドにしてーっす。世界タイトルが12なんで」
世界主要4団体にて行われるウェルター級世界タイトルマッチは12回戦――つまり12ラウンド制である。試合時間は計36分。休憩を含めて計47分で決着がつくということだ。
しかし。
「点数がつかない以上判定はないし、引き分けの裁定だってないんだよ? 勝負つかずになったらどうする気だい?」
花子の疑問に胸を張り、義人は答えた。
「俺がノックアウトできなきゃ俺の負けっす。あー、ノックアウトじゃなくても相手がタオル入れたら俺の勝ちっすけど」
ボクシングにおいてタオルを投げ入れることは降参の意を示す。と、解説している場合ではない。
「武器はなに遣ってもいいっす。魔法でもビームでもなんでもありあり。俺ぁこの」
彼は力を込めて両拳を突き出し、アップライトの構えを取って、
「手ぇ2こでやらしてもらいまっす」
途端、拳から力が噴き出し、なんとも力強いなエフェクトをかけた。
なんで手まで乗り気なんだ……げんなりと崩れ落ちかけた体を魔術で無理矢理引き起こして立て直し、花子はこめかみを揉み揉み訊く。
「君、自分がなに言ってるのかわかってるんだろうね? 今度こそ死ぬぞ? 剣だってさっぱり防げなかったくせに、槍やら矢やら魔法やらビームやら! いったいどうできるつもりだ!?」
怒りをいや増していく彼女の言葉は、まったくもってその通りと言うよりない代物だった。
槍は長い、矢は迅い、魔法はわけがわからない。ビールはそれこそ光。わかっている。わかりきっている。だからこそ義人は強く声音を張り上げた。
「がんばってなんかうまいことやるっす!」
えええ!?
擬音にすればズギャーン!! となるだろう衝撃が花子を貫く。
なにひとつ方策はなし。しかもそのふわっとしたやる気はなんだ。
くどい話ではあるが、この単純バカはいつもそうだ。一度だってうまくできた試しがないのに、自信満々で言い切っては物の見事に失敗する。
と、ここで義人はトーンを落とし、かつてシャザラオに斬り込まれた胸元を指先でなぞった。
「殺してーんだったら俺なんか殺したらいいんすよ」
声音に灯る悔いは、それこそ息を吹きかけられた命の蝋燭さながら大きく揺らめき、義人の生気を損なわせる。
が、それも数瞬のことに過ぎなかった。悔いを芯として燃え立った意気が彼を輝かせ、際立たせて。
「でも。俺が勝ったらマジで誰も死なせねーんで、ぜってー俺が勝つっす」
彼は敗者を殺さないと言いだした。いや、驚きはしない。そもそも彼がそう言うことは始めからわかりきっていたことなのだから。問題は、もっと大きなことだ。
「あたしは沸かせられないくせに、頭はすっかり沸いてるじゃないか」
苛立ちを込め、花子は義人へと押し迫った。
「相手はなにをしてもいい。それも36分間で打ち倒されるか降参させられる以外に負けがなくて、殺されもしない。そんなルールを提示されれば時間稼ぎが横行するだけだ。逃げ切れば自動的に勝てるんだからな。いや、横行しようもない。ひとりめの挑戦者が君を殺すからな」
こんなことをいちいち言わなければならないのか。いや、こんなことをいちいち言わなければならないのだ、このバカには。
確かにここまで王者不利のルールなら義人も後悔はせずに済むだろう。が、あくまで本人だけの満足だ。見ているよりない王子や治癒師、多分犬も、どれだけの気苦労を背負わされる?
「じゃ、ノックアウトできなかったら俺の負けで?」
なぜ訊く。
なぜこんなにも頑迷で意固地なのか。
眉間をぎりと歪める皺を竜化させた指先をもって力尽くで押しほぐした後、花子はくわっと。
「これ以上頭を沸かすな!! 降参の条件は外さないからな絶対に!!」
「あっ、先輩やばいっす穴空いちゃうっすあでだだだあだだ」
バカを黙らせるべく竜爪で眉間をぐりぐり苛んでおいて、彼女はあらためて問うた。
「君、いったいなにがしたいんだ?」
「ガチのタイマンっす」
淀みなく義人は答えた。
「なんかよくわかんねっすけど、先輩が言ったみてーに俺が後悔してんならもう後悔増やさねー。他の連中にも後悔させたくねー。だから誰も死なさねーし、俺も死なねっす」
拙い言葉ながら彼の意は知れた。誰にも後悔させぬがため、自分をどん底に追い込んでなお勝ちきってやるのだという心意気だけは。
「……挑戦者はひとり。それと1分間の休憩中、互いに最低限の治療を認める。ちゃんと入れとかないとまた聖女王陛下に揚げ足取られるかもしれないしね」
花子がそう切り出したのは前向きな理由からではない。あきらめだ。
絶対に認めぬまま泥沼さながらな後悔に浸り込んだ彼を引っこ抜き、歩き出させる。それをするには彼女の絶大な我慢が要るものと思い知ったからこその、譲歩。
「押忍。それすぐみんなに教えてやってください。俺、今からだってやりますんで」
ああ、ああ、そうしてまた自分を追い込むのか。こっちに負い目さえなきゃ「却下だぁ!」とかわめいて蹴り飛ばしてやれるのに。
そんなことを思いつつも、花子は挑戦権を有する全種へと通達術式を飛ばした。
相手も決まっていないのに王者が掟を定める、しかも自分に不利過ぎるものを。そんなことは史上初の出来事だ。
喜び勇んで挑戦者が名乗りをあげてくるだろうし、どの種が来るにせよ苦戦は避けられまいが、それが届くまでにいくらかの予想と対応策を調えて――
『書状不要と見受けた故、この言をもって宣告とす。我ら森の民、王者へ挑まん』
それは森の民――すなわちエルフが得意とする風の魔術によって王都全域へ知らされた挑戦の意志である。あるのだが、しかし。
「なにがなんでも早すぎる!」
状況はまるで把握できていないながら、とにかく花子は駆け出した。
エルフの宣告は言わば奇襲だ。この状況をエルバダが把握しているものとはとても思えなかったが、ともあれ女王と話さなければ。
「あれ魔法っすよね!? 俺タイマン張るっすよね!?」
あっさりと追いつき、横へ並んだ義人はいつもの「よくわかんねーんすけど顔」である。
「そうなんだけど! じゃあやりましょうかって話じゃないんだよ!」
「? ? マジでよくわかんねーんすけど」
「いい! いいから黙ってついてこい!」
すると。花子の声音を聞きつけたか、向こうから衛兵が手を振り振り駆けつけ、並走しつつ敬礼を決めたのだ。
「竜魔様、王者殿へ申し上げます! 今し方王都にて多数の民が倒れたとの報が入りました! かろうじて民の命は損なわれておりませんが、居合わせた薬師によらば、毒による症状と思われながらいかなる薬も効果がないと」
最後まで聞かず義人が加速して、花子を追い抜いた。
「後輩くんは行ったってどうにもならないだろう! 犬といっしょにかけっこしてろ!」
「よくわかんねっすけどなんかやるっしょ! 俺ほっとかねーんで!!」