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59.出合

『クソが……!』

 義人が一歩を刻む度、腹の底で激しい疼痛が跳ね上がる。

 そればかりか、せっかく盛り場へ着いてみても、一端の顔をそた輩は彼に気づくと一斉に散り、姿を消して。

 この街において彼は悪い意味で有名だ。相手が誰であろうと牙を剥き出し、襲いかかる、昭和の世で云うところの狂犬として。

 それでも以前は話を聞きつけ、興味本位に突っかけてくる者もあったのだが……暴力よりもその狂気に中てられて数を減らし、もう誰も構うものはなくなって。


 義人にとって、喧嘩とは唯一己に実行できるコミュニケーションであった。

 喧嘩をしている間ばかりは誰かと向き合える。

 殴っている間ばかりは誰かと通じ合える。

 だが、終わってしまえばまた、独り。

 それがおそろしくて獲物を探せど、どこへ行こう独り。とどこまで行こうと独り。独り独り独り。


『クソがよ!!』

 なぜこんな辛くなるのだろうか。

 考えることが苦手な彼には知れなかったが、簡単な話だ。喧嘩ですらうまくできていないから。

 得意なはずのものもこの有様。本当にもうなにひとつ、うまくできなくて……

『クソ!!』

 どうしようもなく腹が立つのに、それをぶつける対象がわからず、さらに腹が立つ。

『クソがクソがクソが!!』

 闇雲に吠えたとてなにが変わることも起きることもない。

 それでも夜の街を歩いて、その内に灯が届かぬ先へまで至って、それでもなお進み――ついに肩が擦り合った相手へ嬉々として殴りかかっ


 がづん。表記にすればそんな音だっただろうか。左の頬へ相手の拳がめり込んでいて。

 たまらずよろめき下がった彼へ、夜陰の向こうから相手が言ったのだ。

『あれか? 腕試しか? 江戸とかから来たってかおめぇ?』

 すがめた目で闇を透かし見れば、ようやく相手の様が浮かび上がってくる。


 どこからどう見ても、太ったおっさんだ。


『うぉ! おめぇびっくりさせんなよ! なにおめぇ辻斬りとかそういうやつ? 江戸か? 武士か? やばい、ついに俺も異世界トリップ系?』

 うきうきとわけのわからぬことを唱えるおっさんはともあれ、殴られたのは正直、久々だった。

 自覚はないながら、父親の暴行を受け続けた幼少期は義人に人並み外れた動体視力を育ませていて。おかげで巨漢やプロの格闘家くずれを相手にしたとて後れをとったことはない。

 だというのに、おっさんは当ててきた。しかも咄嗟に顔を捻っていなければ今の一発で転がされていただろう。

『へぇ。今のちっとよけた? ガチで目ぇいいなぁ、おい』

『クソが――!!』

 口の中を切ったらしいが、どうでもいい。殴られた分、殴り返さなければ。

 しかし振り回した拳はあえなく空を切り、そして。

『オヤジ狩りとかマジ流行はやんねぇぞ?』

 くぢっ。前に踏み出していた左脚が内へ噴き飛び、義人は無様にぶっ倒れたのだ。

『クソがクソがクソが』

 すぐさま立ち上がろうとすれど、下腿で爆ぜた激痛は彼の脚から間隔を奪い去り、立たせてくれはしない。

 なんだってんだよこれ!?

『おっさんなにしてくれてんだよ!?』

『ローキックだローキック。上ばっかじゃなくて下もちゃんと見とけ』

 太った体が妙にすばやく動き、気がつけば義人は胴に両脚を巻かれ、首を抱え込まれていた。

 それがギロチンチョークという技であることを知るのは後のことだが、ともあれ。

『クソクソクソクソ』

 両の拳を振り回すが、体をうまくずらされていなされ、しかも脂肪の下にある筋肉がやけに太いせいもあって、当たるは当たるが手応えがまるで感じられない。

 クソがクソが、クそ、が……

 その間にも意識はじりじりと遠のいていき、筋肉が弛緩したせいか、ぐう。思い出したように腹が鳴った。

『んだ、おめぇ。腹減ってんの? っし、飯食わしてやんよ』

 ふと、おっさんの腕が首から離れる。

 一気に正気を取り戻した義人が反射的に睨みつければ、やけにいい笑顔が待ち受けていて。

『食ったら殴りっこの続きすっかぁ』


 やばいおっさんに捕まった。

 まったくもって妥当な感想だったわけだが、さらに。

『でもその前によ』

 ごづっ! 頭のてっぺんに容赦なく拳を打ち下ろされ、息を詰まらせられたのだ。

『っでぇっ!!』

『なに考えてっかなんざ知んねぇけどな、いきなし他人様に突っかかってくんじゃねぇ』

『ざっけんなクソじじい!! 食ってからじゃねーのかよ!?』

 完全に虚を突かれた憤りと恥ずかしさとで、つい本音を漏らしてしまいつつ義人が吠えれば、おっさんは真面目な顔をして返してきたものだ。

『小僧、叱られたことねぇだろ?』

『は? クソみてーに殴られてたっての』

 言ってから気づいた。父親の暴力は叱るためのものではない。ただ痛めつけたいだけのものだ。だとすれば、母親にも放置されてきた自分は確かに、叱られた経験はないのかも。

 と。そんなことよりもすぐさま殴り返して――

『悪ぃことしたら叱られねぇとだめなんだよ』

『ぁあっ!? なんでだよ!?』

『叱られなきゃよ、てめぇが悪ぃことしたってわかんねぇまんまだろうが』

 確かに、自分は見も知らぬおっさんに殴りかかった。まさに“悪いこと”である。

 それでも常の義人ならば、感情的な屁理屈をこねて己の非から目を逸らしていただろうが……今の拳骨で頭に押し詰まっていた毒気どっきが抜け落ちてしまっていて、

『って、おっさんさっき俺の顔殴ったじゃねーか』

『ありゃあ正当防衛だし、こりゃまぁ人情ってやつだぁな』

 さらっと言い返され、なぜだろうか、今度は腹に詰まっていた不快な熱が冷まされ、失せていく。

 おかげで腹がどうしようもなく空いてしかたがなくて、渋々とついて行くよりなかったのだ。




 連れて行かれたのは、街灯にすら見捨てられた暗がりに建つ雑居ビルの地階である。

 リングがあり、サンドバッグがあって、ボクシングジムのようだが……

『かーちゃん、小僧になんか食わしてやってくれよ』

 薄明かりの向こうへおっさんが声をかければ、惚れ惚れするような細マッチョの長身イケメンが現れて、

『なにまた拾ってきたのぉ? イヌネコじゃないんだから、そういうのやめてくださいって言ったでしょお?』

 もう間違いない。細マッチョだが、長身だが、イケメンだが、ごりごりのオネェだ。

『メシ食わしたらスパー(リング)な。任した』

 さっきちっと動いちまって、疲れた。のんびりと言い添えたおっさんに、イケメンオネェは思いきり眉根を引き下げて言い返す。

『だったら食べさせちゃダメでしょお。この子ゲロ吐くわよ?』

 ゲロ吐く? 俺が? なにが起きているのかはわからずとも、舐められていることだけはよくわかる。

 喧嘩屋は舐められたらおしまいだ。

『うるせぇよカマ野郎! 潰してやんよ、おお!?』

 ドスを効かせて威嚇すれど、オネェは下唇を突き出して笑い返し、

『なにこの子昭和の世界から来たヤンキーくんとかあ? すっごいイキってんですけど、躾けちゃっていいですう?』

『腹と左脚だけ触んねぇようにな』

 おっさんの意を察したオネェはとろりと笑み、

『はい、喜んでえ』


 そうして義人はたった5メートル四方のリングの中、オネェに1発もパンチを当てられぬまま翻弄され、パンチとキックをちくちく当てられたあげく、腹へ詰め込んだオムライスをもれなく吐き出すはめになったのだ。

『んだよっ、クソ……なんだよこれ、カマ野郎っ』

 吐き出したものの横へぶっ倒れ、息も絶え絶えに問うた彼へ、オネェはおもしろげに口の端を上げて答える。

『キックよお。ってかアンタ、ほんとに目がいいわねえ。何回か本気で当てちゃったあ』

 このときの義人にはキックがキックボクシングを指す言葉であることは知れなかったが、ともあれ。

『っせぇカマ野郎!!』

 嘔気を無理矢理に飲み込んで吐きつければ、オネェはくわっと目を剥いて滑るように彼へと詰め寄り、かがみ込んで目を合わせて。

『アタシのことはかーちゃんってお言い』

『なんでだよ』

『負けたからよお。やだってんなら勝てばあ?』

『……クソがぶっ殺してやんよ』

『はいはい。だったらぶっ殺す前に自分が吐いたの掃除してちょうだい。そしたらもっかいごはん作ったげるから』

 なんで俺が。吐きつけようとした機先へ自称かーちゃんは言の葉を被せる。

『アタシに勝つまでアンタはここの子です。そうなんでしょ、オヤジ?』

『おう。小僧も心配すんな。ガチで勝てるように仕込んでやっから』

 やってきたおっさん、いやオヤジもかーちゃんの脇にうんこ座りを決め、やけにいい笑顔でサムズアップを決めた。


 やばいおっさんだけでなく、怖いカマ野郎にまで捕まってしまったと気づいた義人だったが、なぜか腹の底に在り続けていたものが薄らいでいて。

 わけがわからない。たったひとつの頼りである暴力が通じなかったのに。無様に吐かされ、這わされて負けたというのに。


 なんだってんだよ、これ。なんなんだよ、俺。

 疑問が晴れることはなく、気がつけば義人は名もない格闘技ジムの住み込み練習生と成り果てていたのであった。




『ほら朝よお! とっとと起きて走りに行くからねえ!』

 泥のように寝こけていたところをかーちゃんに叩き起こされた現在時刻、朝の5時。

『クッソ、ゲロ吐くっ』

 引きずり出され、鉄骨さながらな臑で尻を蹴られながらよろめき走る義人へ、オネェはへらへらと言ったものだ。

『運動不足ねえ。そんなんじゃアタシにいつまで経っても勝てないわよお?』

『っせぇクソ! ぜってーぶっ殺す!』

『おほほほほ。追いついてごらんなさあい?』

『クソがっ! クソ、クソーっ!!』

 そうして散々に短距離、中距離、長距離を走らされ、這々の体でジムまで戻れば、満を持した顔でオヤジが待ち受けていて。

『昨日のおさらいからやっか。最初はフットワークだぁな』

 パンチのひとつも打たせてもらえぬまま、へろへろの脚をさらに酷使させられるはめに陥った。

『よくわかんねーよ! 殴らせろよクソジジイ!』

『焦んな焦んな。殴んにゃ準備がんだよ。でだ、最初の左足はちゃんとわかってんぞ。右足がわかんねぇだろ? ちっと見てろ。こうやって、出した左足の踵んとこに右足の先っぽ近づけんだ。やってみな……よぉ、わかったじゃねぇか』

 言葉の荒さとは裏腹、義人を丁寧に導いていく。

『は? なんで俺、わかったんだよ?』

 実際、なぜこれほど容易くできなかったことができるようになったのか? きっとオヤジは自分の教えかたがいいからだと胸を張るだろうが。そう思っていたのに。

『おめぇはマジで見て。マジで聞いたらわかんだよ』

 当たり前の顔で言われてしまって、義人は言葉に詰まる。


 クソジジイが教えたからじゃねー? 俺が自分でわかった?

 俺、勉強とかなんもわかんねーし、勉強じゃねーもんもぜんっぜんできねーのに。

 クソ、なんなんだってんだよクソが。なんで俺、うれしくなっちまってんだよ。


 わけがわからなくて苛立つ苛立つ苛立つ。

 しかし、どれほど苛つこうともうれしさは減らず、胸の真ん中へ居座ってどいてはくれないのだ。


『ほらほら、朝練済んだらさっさとごはん食べなさあい。今日から学校行くって約束でしょお? 1秒でも遅れたら殺すわよ』

 と、あろうことか裸エプロン――ブーメランパンツのみ着用――で現れたかーちゃん。

 義人はようやく意味不明なうれしさを振り切り尖った目を向け、唸るように言い返した。

『は? 行かねーし』

 拙い言葉ながら、家庭の事情は説明してある。あれを聞いてなお登校しろ? 誰も得しない結果に終わるだけだ。

『ガチな話、学校は行っとけ。そいつがオフクロさんに小僧が立てにゃあなんねぇ義理ってもんだ』

 オヤジは意外なほど真剣な顔を真っ向から義人の顔へ向き合わせ、まっすぐに目を見て言葉を継いだ。

『憶えとけよ。世ん中で大事なもんは義理と人情、ふたつっきりだぜ』

 納得してやるつもりなどなかったのに、その言葉はするりと義人へ染み入って、じわり。木漏れ日のように胸をぬくもらせる。


 なんだこれ。

 うれしいわけじゃねー。なんかよくわかんねー。ほんとによくわかんねーんだけど。

 なんかほんと、クソじゃねー感じ。


『……だるかったら帰ってくっから』

 彼はまるで気づいていないのだ。

 このジムへ帰って来ると、己がそう言ってしまったことに。

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