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60.目標

 未だ義人ではない義人が帰る先をアパートからジムへと変えて1ヶ月が経っていた。

『やばいって!! 死ぬ!! 死ぬし!!』

 100メートルダッシュ5本の後、休みなしに5キロのランへ追い立てられて、彼はたまらずわめき散らしたものだ。

 ランとジョグを交互に行うインターバルトレーニングは脂肪を燃やして筋肉を育てると同時、瞬発力と持久力の両者を鍛える効果的な鍛錬法ではあるのだが……この後200メートル、400メートル、800ネートル、1600メートル、もちろん合間に5キロずつのランが挟み込まれるとなれば、地獄以外のなにものでもありはしない。


『ほらほらあ、リズム考えながら走りなさあい。フットワークの練習にもなってるんだからねえ』

 ばたばたとみっともない走りかたを晒す義人に対し、付き添って走るかーちゃんは余裕である。彼女にしても当然この基礎トレは厳しいもので、息を切らしはする。が、“小僧”とはスタミナ量が違うからこそ回復が速い。

『死ぬ死ぬ死ぬ死ね死ね死ねクソ』

 青ざめた顔を上向け、弱音を呪詛へと変えて垂れ流す義人。

 その背後へ華麗なステップで回り込んだかーちゃんは、あろうことか彼の肩へ両手を置き、のしかかったのだ。

『死ぬから死ねっつってんだろクソカマ野郎ぉー!! デブ!! クソデブ!! デブカマっ!!』

『あらあ? アタシ常日頃からリミット越えないように謹んでますけどお?』

『だったらなんでこんな重てーんだよ!?』

『アンタの足腰がまだまだしっかりしてないからよお』

 からかうように言った直後、彼女は声音を引き締めて。

『殴るってねえ、足腰が大事なのよお』

 くるりと義人を半転させて向かい合い、かーちゃんは拳をらずに左右の連打を演じてみせた。


 たった1ヶ月、されどもう1ヶ月、格闘技を仕込まれてきた義人にはわかる。

 強靱な脚力が彼女の腰を据え、捻り込まれた上体と連動した拳打を冴えさせていて、美しい。

『クソっ!』

 つい真似してみたが、脚はくねり、腰もずれ込んで、上体を必死で回せど、パンチはタイミングすら合わずにただの手打ちで終わり。

『クソがよ! なんでできねーんだよ!』

 うまくできない自分が情けなく、恥ずかしい。そういえばこの1ヶ月、「うまくできない自分」に打ちのめされたことなどなかったはずなのに……


 そんな義人を再び半転させて向き合い、かーちゃんは言った。

『アンタはちゃんとできるわよ。アタシもちゃんと教えたげるから』

 その言葉の優しさがどうにも不可解で、つい訊いてしまった。

『……教えていいのかよ?』

 己を殴ろうとしている小僧に、殴れる方法を。

『じゃなきゃフェアじゃないでしょ? アタシ、狡いことはしないの』

 フェア。狡いことはしない。やけに胸へ染みこんできて、されどその理由はわからなくて、黙り込むよりなくて。

『それにね、しっかり走れるようになったら死ぬ気もなくなるわよお!』

 されどばしばしと背を叩かれて思いの底から現世まで押し上げられ、『クソがーっ!!』、再び走り出すよりなかった。


 ちなみにこの後、義人はスパーリングでかーちゃんから死ぬ目に合わされるのだが。

『俺、よくわかんねーんだけど……なんか、ズルしてねー?』

『アンタごときに狡いことなんてしないわよお。じ・つ・りょ・く・さ♪』

 圧倒的な実力差があるのに手加減なしで殴る蹴る、これは暴行というものではないのか?

 などと思いつけるはずもなく、ただただ五体投地を続けるよりない中学生男子であった。




 ここで少し、かーちゃんの心を語ろう。

 彼女には、義人が真面目にトレーニングへ向き合っていることがうれしい。

 初めて会った夜、彼は思い詰めた顔を今にも破裂しそうなほどに張り詰めさせていた。

 同じだったのだ。押し詰まっているものは違えど、かつての己と。

 だからこそオヤジは拾ってきて、似たもの同士なら放っておけないだろうと、そう思って引き合わせたのかもしれない。が、結果としてそれ以上のものが彼女へもたらされていて。

 詰まっていたものが抜けた後の“空っぽ”が満たされつつあるのは、闇雲に暴力を奮うよりなかったところから少しずつ変わりつつある義人のおかげだから。

 なにかしらね。なんだかほんとのかーちゃんになったみたいな感じ。




 打撃練習にはオヤジも加わる。

『左の爪先でしっかり踏ん張れ! 体重かけて体の右側捻って前に出せ! ――それだぁ! マジいい音したなぁ!』

 かーちゃんの構えたミット目がけて1分間全力でパンチを打ち込まされる中、一打ごとにオヤジの声音が飛んできた。

 彼はけして『前に言っただろ!?』とも『なんで言った通りにできねぇんだよ!?』などとは言わない。何度でも言葉を変えながら繰り返し、いいところを見つけては思いきり褒める。

 そうしてくれることがわかっているから、恐れることなく考えて、試すこともできたのだ。

『おらぁっ!!』

 左ボディブロウを当てた反動に乗せての左フック。考えずに出した二連打をかーちゃんはしっかり受け切ったかと思いきや、がばと振り返って。

『ね、オヤジ、ねえっ! 今の見た!?』

 やけに細かく震える彼女の言葉に、オヤジはにっかりとサムズアップ。

『今のダブル、小僧が考えたんか? いいじゃねぇか。じゃ、それぶっ込める詰めかた覚えてかねぇとなぁ』

『え? これって俺の発明じゃねーの?』

『当たり前でしょお? でもすごいわよお! アンタ、センスあるわあ!!』

 たった今自分が思いつきで打ったパンチにも名前がある。義人からすればそれは驚きであると同時に悔しいことでもあったが、それ以上に楽しく、うれしくて。




『言ったよな!? オレ言ったよなぁ!? なんでわかんねぇんだこのカスがぁ!!』

 父親はがなりながら義人を殴った。

『他人の気落ちがまるで察せられない問題視ですね』

 先生と呼ばれる者たちは遠巻きに言い合い、義人を無視した。

『なにもうまくできない子。どうしてなのどうしてどうして』

 母親は彼を見限るまで、飽きずにそう繰り返して義人を責めた。


 君はあなたはおまえは変わっていこう変わらなきゃいけない変われ変われ変われ――


 義人は必死で努力したつもりだった。

 言われたことを理解したつもり。他人の気持ちを考えたつもり。変われるように努めたつもり。

 されどなにひとつうまくできなくて……なぜなのかと問われてもわからないのだから答えようがなく、どうすればいいのかと問うても大人は「なぜわからない」、「なぜ察せられない」、「なぜできない」と唱えるばかり。

 あげく、押し黙ってうつむくよりなくなった彼は、社会からも家からも放り棄てられたのだ。


 だからといって自由になれたわけではない。離されただけで、放されてはいなかったから。

 吐きつけられた数多の「ない」は呪詛のごとくに義人の魂を縛め、苛み続ける。


 なんもわかんねーなんもできねーなんもなんもなんも!

 俺ぁクソだ。価値なんかなんもねー、クソのクソだ。

 でもよ。

 だったら俺、なんで生きてんだよ。

 バカだからわかんねーんだよ。

 俺、生きてる間になにしたらいいんだよ。

 なんもねーのになにができんだよ?


 わからないから苛立ち、憤って、父親から習い覚えた唯一のコミュニケーション手段である暴力へすがり、さらなる孤独へと己を追い立てて、追い込んで、追い詰めて。


 しかしオヤジは、義人へ真面目な顔で言ったものだ。

『なんもできねぇだぁ? バカ言ってんじゃねぇぞ。おめぇ、殴れんじゃねぇか。それも才能なんかじゃねぇ。おめぇがマジがんばってよ、そんでできるようになったんだ。ガチですげぇだろ』

 クソな自分とまっすぐ向き合い、できないことではなく、できることを認めてくれる人がそこにいる。

 そのことがただただ、うれしくて。


 オヤジの言葉が、大人たちが毛lへとかけた「ない」の呪縛を微塵に打ち砕いた。

 そこからだ。できなかろうと苦手だろうとやりたくなかろうと、とにもかくにも全力を尽くせるようになれた。

 とはいえ、うまくできることなど殴る以外にひとつもありはしないわけだが、それでも。


 俺もオヤジみてーになりてー。


 義人にとって、その太ましく口汚いおっさんは半生の中で初めて得たヒーローだった。

 まったくもって不幸と言うよりないことながら、彼は憧憬と尊敬を燃料に、他の練習生へ声をかけるようになる。


『お疲れっす』

『それっす。マジいい感じっした』

『なんか俺うまいこと言えねんすけど今のヤツ、ガチかっけーっす』


 もちろんオヤジが拾ってくるような輩だ。真っ当な人間などひとりとしていはしない。誰もがどこかおかしく、ずれていて、狂っていて、まともな返事が返ってこようはずもなくて。

 それでも義人は飽きず、懲りず、投げ出さず、毎日必死で話しかけ続けた。

 このジムは格闘技の学び場としてよりもむしろ、そんな輩の寄る辺としての意義がある。それを誰より痛感していればこそに。


 どなた様もよ、ここじゃぼっちにしとかねー。

 マジでオヤジのマネしてるだけだし、ガチでうぜーしキめーしウソくせーってわかってっけど。

 そんでも俺、ぜってーやめねーから。


 するとなんとなく会話が生まれ、馴染みだす者もぽつぽつ出てくるようになるわけだが……そういえば、この頃になるとすっかりオヤジの口癖が移ってしまっていた。

 最初は恥ずかしくて隠していたものだが、もう恥ずかしくない。

 本当は「マジ」。

 本気は「ガチ」。

 いい言葉だ。「クソ」の何倍も、いや、比べようがないほどに。




 そしてジム生活が半年を過ぎる頃にはもうひとつ、移っていたものがあった。


『はい、お弁当』

 学校へと踏み出す義人へかーちゃんが差し出した弁当箱はなかなかのサイズで、ずしりと重い。開けずとも内には鮮やかな彩りの料理が詰まっていて、格闘家に必須の栄養を保証していることが知れた。

『お昼の前に食べちゃうんじゃないわよお? 夜練まで保たなくなったら困るんだからねえ』

『わかってっから』

『あとジュースとか飲んだらダメよお? 糖質は大事だけど摂り過ぎたら重くなっちゃうしい、それに――』

 ちなみに“かーちゃん”は本名をもじった愛称なのだが、鬱陶しいほど世話焼きな彼女にはぴったりな呼び名だと思う。


 そも、義人が懲りずに他者とのコミュニケーションへ邁進できるのは、かーちゃんがあればこそなのだ。凍りついていた己の心を母性という名の熱で溶かしてくれた、彼女の。

 無論、そこまで難しいことを自覚できているはずはないのだが、それでも。

 今、己がクソから人間になりつつあることだけは、なんとなしに感じていた。

 相変わらず空気は読めないし、うまくできることも数えるほどしかないにせよ、それでもなりたい己を目ざして生きていこうと思えるようになったのは、オヤジとかーちゃんのおかげなのだと。


 そんな彼の心持ちを見て取ってか、かーちゃんは美しい笑みを見せて、

『チートデイにアップルパイ焼いたげるわあ』

 義人もまた笑ってサムズアップを返し、

『押忍』


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