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61.押忍

 押忍おすもまたオヤジから教わったひと言だ。


 アップルパイの話が出た朝から半月ほど遡る。

 その日も闇雲に板書をノートへ書きつけるだけの学校生活を送っていた義人は、教室の隅でとある騒動が起きていることに気づいた。

 多人数でひとりを囲み、暴力を交えて責め立てるそれは、いつの時代にもどの場所でも繰り返され続けている“いじり”という名のいじめである。

 昨日今日始まったものではなく、たまたま表出しただけのものなのだろう。いじめる側はぎりぎりのラインで抑えていたのだが、場の空気の思わぬ熱に中てられた彼らはついに標的の制服を剥がしにかかって……


『俺、空気読めねーからマジよくわかんねーんだけどさ、おひとり様相手に何名様がかりだよズルくせー。ダセーことしてんじゃねーぞ?』

 滑るように割って入った義人は標的となっていた生徒を背にかばい、いじめていた者たちを見やる。


 異物中の異物である彼は、最初の頃は自身がいじめの標的であった。が、なにをしても反応せず、見えてもおらぬように振る舞う彼へ構えば逆にプライドが損なわれる。故に自然と無視されるばかりのものと成り果てていた。

 大半は白けて一歩退いたが、リーダー格からすれば、ヒエラルキー最下層の元いじめられっ子に面子を潰されたことを見過ごせはしない。

『オレら楽しく遊んでんですけどぉ? 空気読んで丸まってろよ、なぁっ!』

 振り向き様、右のヤクザキックを義人へ突き出した。

 完璧な奇襲。格好つけて標的を助けにきたバカへ無様に尻餅をつかせ、ぶんというものをわからせてやる。そのつもりが。


 義人は蹴り足の外へ踏み抜け、肩を擦りつけるように踏み込んで、左のアッパーカット。拳が顎へ到達する寸手でぴたりと止めて。

 そっと開いた手指をもってリーダー格のシャツ、その第二ボタン――第一はすでに外れていたから――を外し、

『俺空気読めねーんだって。でもよ、ズルとダセーはほっとけねーんで。ガチでやめとこーぜ、な?』

 言い残して自分の席へと戻った義人は、顰め面で舌を打ち、思いきり突っ伏した。

 あーもーあー!! シロート相手にクっソダセーことしちまったー!!


 解放された後も、リーダー格は動くことができなかった。

 なんだあの動きは。しかも殴ろうと思えば殴れたはずなのに、なぜ止めた?

 今さらながら唾を飲み込もうとするが、詰まった喉はひくつくばかりでそんなことすらままならない。

 かくて騒ぎは萎縮するように終息したわけだが、リーダー格の心は憤りで煮えていた。

 見ていた者がグループ内の面々だけならば好き勝手に騙り、自分が殴らせなかったのだと言い張るところだが、クラスの多くに顛末を目撃されている。

 恥をかかされた。

 その逆恨みは騒動を思わぬ方向へと転じさせた。




『彼がクラスメイトに暴行を加えたと報告がありました』

 担任は表情のない顔をオヤジへ向け、切り出した。

 義人に暴行を受けたと告発したのは件のリーダー格で、証人はグループの面々。

 彼らは俗に云うスクールカーストの一軍であり、逆らえる者はいない。それこそいじめを受けていた生徒ですらもだ。

 故に義人が暴力を振るったのだという騙りは真実とされ、保護者――義人の母親は蒸発しており、今となってはどこにいるかも知れなかった――であるオヤジが呼び出されることとなった。


『小僧、殴ったんか?』

 着慣れないスーツに身を包んだオヤジが横に座る義人へ問う。

 平らかな声音は冷め切っていたが、義人は竦むことなく言葉を返した。

『マジ殴ってねー。いじめられてたヤツがいて、そんでいじめてたヤツのボタン外してやったんだよ』

 かつての自分なら、悪態をわめき散らして殴りかかっていたところだ。最良でも殴っていないとだけ主張し、後は押し黙るばかりであったはず。

 だがしかし。

 オヤジには、オヤジにだけは、ちゃんと言える。

 そんな彼へオヤジはうなずきを返し、

『ま、だったらギリ暴行だぁな』

 担任へぐっと頭を下げたのあd。

『うちの小僧がどこぞの坊ちゃんのボタン外しちまったそうで、面倒おかけしました。親御さんにも詫び入れさしてもらいます』

 その迫力に気圧され、びくりとした担任だったが、すぐに外面を取り戻して言い返す。

『いえ、被害者は確かに殴られたと』

『そりゃありませんよ』

『はい?』

『小僧は殴ってねぇんで』

 端から聞けばモンスターペアレントそのものの言葉。

 仮にも格闘家が殴れば相手が無事で済むはずはない。その程度の言い様はいくらでもあるだろうに、オヤジはただそうと言い切ったのだ。

『ってか先生、ちゃんと真相っての調べて言ってなさるんですか? そこんとこひとつ、よろしくお願いしますよ』

 冷えた声音で淡々と語り、彼はまた頭を下げた。


 後日あらためて調査をすることが約束されて、義人とオヤジは学校を後にした。

 校門を出て、ジムまであと数百メートルへまで至って、『ぶはぁ!』。オヤジは盛大に息を吐き出して。

『先生ってのもガチで大変な商売だからよ、許してやんな』

『……俺のセリフだっての』

 オヤジの声音が冷めていたわけは、義人へではなく、担任への憤りを抑えるためだ。そんなことは始めからわかっていた。だからこそオヤジが激昂したら抑えなければと身構えていたのに。


『で、なんでおめぇ、クチバシ突っ込みに行った?』

『なんかクソダセーことしてっからほっとけねーなって、そんだけ』

 説明になっていない説明ではあった。

 だが、オヤジは『そっか』、あっさりとうなずいて、

『そりゃほっとかねーよなぁ』

 その言葉がやけに心へ引っかかる。

 放っておけないではなく、放っておかない?

『ほっとかねーって、よくわかんねーんだけど』

 おずおず問えば、オヤジは生真面目な顔をして答えた。

『ほっとけねーのぁ他人様のためだけどな。ほっとかねーのぁてめぇの都合だろ』

 そしてさらに、


『知ってっか? 武道のほうじゃ“押して忍ぶ”って考えかたがあんだ』

『武道ってアレじゃねーの? 空手とか柔道とか。俺、やったことねーけど』

 乏しい知識を元に問えば、オヤジは太った顔を思わせぶりに振り振り返してくる。

『おめぇ、いろいろがんばってんだろ? やりたくねー基礎練とか我慢してよ』

 義人は唇を尖らせ、言い返した。

『ガマンとかしてねーよ』

 これについては言い切れる。

 練習は苦しくとも、己が着実に進歩していることが実感できていたし、なにひとつうまくできなかった自分にできることがある、そう自覚できることは感動的ですらあったから。それもすべて、オヤジとかーちゃんのおかげだ。

 と、本気で思っているにもかかわらず、うまく伝える言葉を紡ぐことができなくて、なんとも苦しげな顔をしてしまって、また悩んでしまうのだ。

『ガチでガマンしてねーから』

 いつになく複雑な表情で言い募った彼へ、オヤジは顔いっぱいの笑みを添えてまた言った。

『学校ちゃんと行ってんじゃねぇか』

『そりゃー、うん。学校はさ、ちっとガマン、してっけど』


 最初に学校へ送り出されたあの日から、彼は無遅刻無欠席を貫いている。

 真剣に向き合ったところで授業が理解できるわけではないし、同級生と馴染めるわけでもなく、それこそ今日のようなこともあって。

 それでも通い続けているのは義理を立てるためだ。

 蒸発した母親にではない。人情をもって己を受け容れてくれたオヤジとかーちゃんに。

 なのにこれもまたうまく伝えられないから苛立って、先と同じように繰り返した。

『マジでちっとだけだし』

 だったらいいけどよ。オヤジはいくらかの間を置いて、また語り出す。

『俺もかーちゃんも世ん中からはみ出しちまった人間だからよ。いろいろガマンしなきゃなんねぇことがあんだ』

 それは義人にせよ薄々感じていたことだ。

 オヤジもかーちゃんも己の過去を語ることはなかったが、人として普通の枠外であることは間違いないし、こんな吹き溜まりにまで流れ着いた彼らが真っ当な格闘技人生を歩んできたはずもない。

『でもよ、ガマンしたくねぇからって俺らが変われるか? 無理なんだよ。だったら「自分を変えて真っ当な人間になれ!」ってタコ殴られたって我慢してよ、マジ変われねぇ俺ってのガチで押し通すっかねぇ。そういう覚悟が押して忍ぶ、押忍ってわけよ』


 自分を変えなければならない。

 それこそ母親からも教師からも散々に言われてきたことだ。

 なのにオヤジは、変われない己を死んでも押し通せと、そう言うのだ。

 心が震えて、奮えた。

 意味はよくわからないながら、「これだ」と義人へ告げる。


『押忍』


 はらの底からひと言を押し出した。

 誰に構われずともいい。認められずともいい。一切変わることなく前へ押し出てすべてを受け止め、忍び、放っておかない己の都合を押し通す。

 だがしかし、義人はまるで理解できていなかったのだ。

 今ここで押し通したい己の様を見つけた己は、すでにかつての己から変わった後の己なのだと。




 出会い頭、かーちゃんは義人をそれはもう強く抱き締めた――というか、抱き絞めた。

『全部わかってるから大丈夫。ウチの子が人様に悪いことなんかするもんですか。学校なんか追い出されたってアタシたちがうまいこと考える。だからなんにも心配しなくていいから』

 答えようにもベアハッグがきつすぎて言葉が出てこない。

 しかし、その力強さがなによりあたたかくて、つい笑ってしまった。これではまるで親馬鹿ではないか。

 心配とかしてねーよ、マジのガチで。

 認められなくていいと思ったばかりだというのに、認めてもらえたことがたまらなくうれしくて、苦痛の奥からほろり。言ってしまった。

『俺、マジでダセーことしねーから。そんだけ信じてくれたらさ、俺、ガチで押忍ってけっから』

 さすがに恥ずかし過ぎてふたりの顔を見られはしなかったが、構わない。

 そろって笑ってくれたことを信じられるからこそ。




 後日の調査であの日の事実が明らかとなった。

 それでも拳を見せて脅したことは問題とされ、いじめを行った輩共々停学を喰らったわけだが、義人にとってはどうでもいいことだ。


 そして停学明けの職員室。

『マジ迷惑かけました! ガチすんませんっした!』

 思いきり下げた頭は坊主に丸められていて、担任だけでなく教務室中の教師の目を丸くさせた。

 とはいえ、誰ひとり知る由はない。

 義人が反省を表すためでなく、押忍を貫く意志を表すためにそれをしてきたことなど。


 その後も小さなトラブルは尽きないながら、義人はなんとか中学校を卒業する。


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