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62.不知

 オヤジを除くかーちゃんとジムの練習生、皆が結集してくれた力のおかげで、なんとか公立高校へ進学した義人だが、それはひとつの妥協ではあった。

 15歳からキックボクシングのプロテストが受けられる。そのままプロになってしまいたかったのだが。

 プロになれても食えるほどの金が稼げるわけでないことはもう知っていたし、それで始めてみたバイトもまるでうまく行かず。結局は真っ当な仕事を探すためにも高校を出ろという話に落ち着いたわけだ。

『いざとなったらアタシんとこで雇ったげるからあ』

 かーちゃんはジムで教える傍ら、小さなバーを経営している。当然ながら彼女も従業員も、オネェ。

『マジありがてーけどさ。俺、ぜってーうまくオネェやれねーよ……』

『ま、俺らもなんかうまいこと考えてやっから、ガチで留年だきゃすんじゃねぇぞ』

『……押忍』

 かーちゃんもオヤジもそう言ってくれるのだが、2年余りも暮らしていればさすがにジムの経営状況は察せられる。バイトもうまくできないなら、唯一得意な格闘技で金を入れられるようになりたいのだが。

『なんか、カネ儲かる闇バトルとかねーかな』

『マンガじゃねぇんだ。あるわきゃねぇだろ』

『そんな危ないとこ行くとか許さないんだからね!? いざとなったらアタシがヤってやるわあ!!』




『っしゃー!』

 最後の400メートルを駆け抜け、義人はひとつ大きな息を吐き出した。

 総距離にして20キロを走り続けてももうへたり込むようなことはない。続く朝練で己を追い込んでも、酸欠で喉を鳴らすようなこともだ。

 身体的な完成度に加え、叩き込まれた技術は彼の目をさらに研ぎ澄ませていた。

 有名な選手であったかーちゃんに指導を求めて出稽古に来るキックボクサーも多かったが、彼らとのスパーリングで後れを取りはしない。むしろ圧倒する勢いではあったのだが……


『アンタもなんだか成長しちゃったわねえ』

 今日も他ジムの選手といい勝負を演じた義人へしみじみと言うかーちゃん。

 その足元、右脇を抱えて悶絶していた彼は青ざめた顔を上げて言い返す。

『そ、れっ……蹴るまえ、に言えって……』

 他者から見ればまさに練習地獄の底に居続けてきたというのに、未だ義人は1発のクリーンヒットもできてはいなかった。

 根本的な技術の差はある。が、なによりも彼はキックがどうにもうまくできず、そこへ付け込まれては転がされるを繰り返しているのだ。

 これはかーちゃん以外の相手でも同様で、今日もそうだ。パンチで押し込めてもどうしてもキックで追し返され、結局判定負けに終わってしまった。


『クっソ! 俺蹴んのヘタすぎんだろ!』

 仰向けになって子供のように足をばたつかせる義人。

 思わず口癖を取り戻してしまうほど悔しかった。

 ただし当てられぬからではない。オヤジとかーちゃんの教えを受けていながらうまく遣えぬ己の“できない子”ぶりが、悔しくてたまらない。

 そも、キックは攻撃の手段というばかりでなく、間合を計り、調整し、リズムを作るためにも必須である。

 わかっているし、努力も重ねていた。

 だというのに、うまくならない。

 格闘家は格闘技以外の運動が苦手だったりするものだが、義人は本当に、殴る以外のことがもれなく苦手であったのだ。


 かーちゃんはほろりと笑んで、駄々をこねる彼を引っぱり起こす。

『そろそろ観念してボクシングやりなさいよお。誰にだって向き不向きはあるんだから』

『でもよ――!』

 かーちゃんと同じキックボクシングがやりたい。

 その一心で彼は練習を重ねてきたのに。

 それを誰よりわかっているのは、他でもないかーちゃんのはずなのに。

 そも、ここはキックボクシングのジムで、日本ボクシング協会に加盟していない。つまりボクシングをやるとなれば他に移籍しなければならず、それだけは絶対に嫌だ。


『小僧、殴りっこしか能がねぇからなぁ』

 と、リングの外から見ていたオヤジが口を挟んできた。

『ま、ボクシングやるにしたってプロテストまでもうちょい時間あんだ。今んとこキックルールでいいだろ。それにあれだ。キックだってのにパンチだけで勝つとかマジかっけぇぞ?』

 その言葉は地獄へ垂らされた蜘蛛の糸さながらで、義人はたまらず飛びついて。

『マジかっけーな! っし、俺、ガチでそれやるわ!』

 救われた顔ではしゃぐ彼と、そっと視線を逸らすオヤジとを交互に見て、かーちゃんはあきらめたように肩をすくめてみせた。

『もお、この子に甘いんだからあ』

『いいんだよ。その分きっつい練習さしてやりゃあよ』


 そしてオヤジはあらためて義人を見据え、

『まずは殴れ。そんで殴って殴って殴りきったらよ、その後ぁ――ぎっ――れ』

 前へ出した両の拳を開いて、また強く握り込んだ。

『救――ねぇ、――ってやんだ。てめぇの勝手でよ』

 言われるまでもないことだ。

 とうの昔に決めていたから。

 オヤジの――でクソみたいな人生から――れたのでなく、――れた己は、同じように為し、成すのだと。義理と人情、この世で大切なただふたつを乗せた左右の――で。

『大丈夫よお! アンタはやったらできる子なんだからあ!』

 オヤジ譲りのサムズアップを添えたかーちゃんに、そっとサムズアップを返して、うなずいた。

『押忍』

 こうなればもう、蹴りがヘタだと落ち込んでなどいられない。

 殴りきれたと思えるそのときまで殴って殴って殴りきってやる。

 もちろん、そこへ至れるまでも放っておかない。掬いながら殴る、実にタフなミッションをこなしていかなければ。

『かーちゃんあと1ラウンドやろーぜ!』

『ヘイボーイ、かかってらっしゃあい』


 しかし彼の気合は前蹴りで腹を突き抜かれた瞬間硬直して、後はロー、ミドル、ハイ、変幻自在のキックで千切られ、霧散した。

 かくて1分で転がされた彼は、先ほどより激しくのたうち回るのだ。

『……なんか、さ。なんかこう……ちっと手加減とか、しねー?』

 必至の訴えに対し、かーちゃんは仄かな寂寥を映した視線を返して言う。

『だってアンタが勝っちゃったら困るもん』

 かーちゃんに勝つまで、義人はこのジムの子。

 それは最初に宣言されたことである。

 が、彼にはもう出て行く気などないのだ。

 なのになにを言ってもマジにもガチにもならない気がして、結局伝えられぬことがもどかしい。

 なんで俺こんな簡単なことうまく言えねーんだよ。

『ぜってー勝ってやっから』

 とにかく言い返せば、かーちゃんは低く言ったものだ。

『うん。期待してるわ』

 そのときかーちゃんが見せた表情は、寂しそうで、楽しそうで、切なそうで、頼もしそうで。今となってもなにを表していたものかがよくわからない。

 だが、彼女が己へかけてくれる情だけはわかっているから、それでいい。




 その日から義人は蹴ることを棄てた。

 全部躱す。

 躱して殴る。

 そうなれば必然的にボクシング技術を学ぶこととなるわけだが、集中したことで一芸はされに研ぎ澄まされて。

 ついには他ジムの選手だけではない。かーちゃんのローキックすらすかして踏み込み、ガードの上からとはいえ強打をぶち込めるまでになった。


 その頃にはどこから繋いできたものか、オヤジとかーちゃんが話をつけてくれたといういくつかのボクシングジムへ出稽古へ行くようになって……彼の目の鋭さとセンスの高さに注目が集まることとなる。そうなれば当然、移籍を勧められるわけだが、しかし。

『マジありがとございまっす。でも俺、実はアタマわりーんで、オヤジんとこでねーとやってけねんす』

 この頃からもう自分の見た目を勘違いしていたらしいことは置いておいて。移籍話をもれなく断り、ただただ己を磨き続ける義人だったが。


 まるで気づいてはいなかったのだ。

 オヤジとかーちゃんが、その裏で彼の先を拓くがため駆けずり回り、骨を折り続けていたことに。


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