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63.親心

 大きく拡げた両脚を砲台のごとくにリングへ据え、かーちゃんが振り込んだ左のミットをウィービングですり抜け、続けて突き下ろされた右のミットをダッキングで潜り躱した次の瞬間。

『53!』

 オヤジが数字を唱えて。その語尾がかき消えるよりも迅く、義人は曲げた膝の溜めを解放。かーちゃんの右脇腹へ打ち込んだ左拳を体ごと跳ね上げ、右顎を刈った。

『……やっばいわね、これ』

 思わずかーちゃんがため息を漏らす。

 差し込んだミットへ突き立った義人の拳打は、どちらも必殺の威力を備えていて。

『物んなってきたなぁ』

 急所の位置へ1から8までの数字を割り振り、ボクサーへ最少の指示でコンビネーションを繰り出させるナンバーシステムは、動体視力同様並外れた反応速度を持つ義人にこの上なく馴染むものだった。

『3こまでだったらカンペキにできんぜ』

 得意げに言う義人へ、大人ふたりはあきれた顔を向けて言ったものだ。

『3しか数えらんねぇんじゃなぁ』

『文明レベルが足りてないのよねえ』


 それにしても、義人の進歩は目覚ましい。今からプロのリングに立っても恥ずかしくない試合ができることは間違いなかった。

 だからこそだ。


『俺ぁこっから野暮用だぁ。小僧、6537、てめぇでしっかりさらっとけよ』

 左わき腹、右わき腹、右顎、鼻面。倒すがための4連打を指示しておいて、オヤジはのっそりとコーナーから下りた。

『げー、またかよ。ほっとかれたら俺、すくすく育たねーぞ』

 唇を尖らせた義人の肩を、苦笑したかーちゃんがミットで叩く。

『アタシも試合あるし、アンタの相手は1回終わり。サボんじゃないわよお?』

『スパーなんか俺とやったらいーじゃねーか』

『キック下手クソ小僧じゃ練習になんないの』

 ぽいとミットを義人へ放り、かぶりを振るかーちゃん。

 不満げにミットを抱えた当の小僧は、いきなり表情を明るく輝かせて、

『KOな! 俺、ちゃんと見てっから!』

 かーちゃんはキックボクシングミドル級の生ける伝説だ。彼女がたまらぬほどに彼女でさえなければ、今も世界王者として君臨していたはず。

 その彼女が久々にリングへ上がる……多くのファンが注目する一戦であったのだが。

『それなんだけど』

 言い淀んだ彼女はしかしそれ以上を語ることなく、どこかおぼつかない足取りでジムを出て行ったのだ。




 ふたりが、おかしい。

 さすがの義人ですら察してしまうほどに。

 ふたりともなにかを隠している。なぜ隠すのかはもちろんよくわからないし、自分にできることがあるならなんでもやるのにと、じれったくてたまらなかった。

 しかし。

 オヤジとかーちゃんが俺に言いたくねーってんだ。俺ぁ押忍って黙ってるしかねー。

 思いのすべてを腹の底に飲み下し、直向きにサンドバッグへ4連打を打ち込み続ける。




 そしてかーちゃんの試合の日。

 義人は信じ難いものを目の当たりにする。

 3ラウンド2分14秒、彼女が“期待の新人”にTKO――ローブ際へ追い込まれての連打を食らってへたり込み、テクニカルノックアウトを宣告された最悪に惨めな瞬間を。


 観客たちはその番狂わせに激しく沸き立ったものだ。

 かーちゃんがうまく緩めたガードの隙を突き、激しい試合に見えるよう彼女が引いた動線を辿り、右ストレートを打ち込んで新人が獲た勝利に。

 正直なところ、義人ですら普通に見ていただけなら気づかなかったかもしれない。最後の最後、かーちゃんが相手のフィニッシュブロウをスリッピングアウェイ――相手のパンチが頬へ当たった瞬間、パンチの進行方向へ顔を横向け、受け流す高難度な防御技術――でダメージを最少に抑えた、それを見てさえいなければ。


 最初から最後まで彼女は冷静で、相手を立てるよう努めていた。それは相当な実力差あればこそではあるのだが、しかし。

 義人は未だに信じ切れていなかったのだ。

 己の不利益よりもフェア精神をこそ尊んできたかーちゃんが、よりにもよって八百長を演じようとは。


 かーちゃんズルしねーんじゃねーのかよ!

 なんであんなクソシロートにやらせちまってんだよ!?


 オヤジに抱えられ、控え室へ戻っていくかーちゃんの後を、衝動的に追いかける義人。

 かーちゃん、あれ、なんだよ!?

 彼の不穏な様に気づいた関係者が立ち塞がり、抑え込むが、『俺関係者っす! かーちゃんの関係者っす!』、なんとか這い出して控え室へ飛び込んだ彼は、またも信じ難いものを見る。


 一斉にこちらを返り見た人々の顔は、全員義人の知るものだった。

 オヤジと、先ほどまで這々の体であったはずがけろりとしたかーちゃんと、相手ジムの会長、そして一般にも顔が知られた有名ボクシングジムの会長。

『すんません。あれがうちの小僧でして。キックはあれですがね、ボクシングはひいき目抜きでできるバカなんで……どうかひとつ、お願いします』

 オヤジが何度も会長ふたりへ非鬱に頭を下げて、

『この子はほんとに素質があるんです! アタシが保証しますから! 日をあらためましてご挨拶に伺わせていただきます! ですので何卒、よろしくお願いいたします!』

 かーちゃんもまた必死に頭を下げる。


 なにが起きているのか、まるでわからなかった。

 そう。

 ボクシングに人脈を持たぬオヤジが、設備もトレーナーも一流の有名ボクシングジムへ繋いでもらうがため、片八百長――この場合は相手に知らせず負けを演じる八百長――を飲み、かーちゃんが己が名声を穢すと承知でそれを演じたのだなどと。


 されど、ふたりの卑屈な態度がなによりも雄弁に物語る。

 押忍の心をまっすぐ貫いてきた彼らがそれを曲げて恥をかく理由。それはもう間違いない。

 全部、義人のためだ。




『あぁあ、ど新人の子に負けちゃったあ。やっぱもうトシかしらねえ』

 帰り道、かーちゃんはわずかに頬を腫らした美貌を笑ませて言った。

 今も義人に知れることはない。

 だが、オヤジもかーちゃんも、彼のために恥をかいてくれたことだけはわかるから。


『あそこのジムぁすげぇぞ。今まで世話んなったとこもちゃんとしてっけど、おめぇのこと最っ高のボクサーに仕上げてくれっから』

 オヤジの言葉に青ざめた顔をうなずかせ、義人は言った。

『俺、なんでもやるよ。移籍はしねーけど、ほかのことだったらなんだってやっから』

 どうか大切なふたりに恥をかかせてしまったことを、少しだけでも贖わせてほしい。

 されどその真摯な願いを、ふたりは笑って押し返す。

『ばぁか。おめぇは余計なこと考えんな。殴ることだけ考えてよ、まっすぐ生きてろ』

『そうそう。アンタはまっすぐ行けばいいのよ』

 いつか逝くその日そのときまで。

 それは与えてくれるばかりだったふたりが、初めて義人へ求めたものであったように思う。

 だとすれば、だからこそ。

『押忍』

 それを果たさなければ。


 俺のことなんもできねーヤツじゃなくて、なんかできるヤツにしてくれたの、オヤジとかーちゃんだ。

 だからよ、ふたりが大恥かいてくれた俺ぁ、マジ恥ずかしくねーヤツになる。

 ふたりに恥かかせねーガチの男んなって、世間様にわからしてやっから。オヤジとかーちゃんがどんだけすげーか!

 恩返しになんねーかもだけど、そんでも、そんだけはやらねーと。

 だって俺、俺さ。




 有名ジムにおいても義人は注目の的と成り果せる。

 残念ながら頭はよろしくないながら、教えられたことを身に染ませるまで飽かず繰り返し、持ち前の目をさらに生かすがため地道な基礎トレーニングを休まず積み重ねて。

 170センチそこそこの彼がスパーリングで180センチ台のミドル級の選手を6537の4連打でうずくまらせ、その冴えた目をもって被せるカウンターパンチで噴き飛ばす様は、それだけで周囲を沸かせる痛快な代物であった。


 しかし、義人自身はけして満足しない。

 もっと強くならなければ。

 もっと鋭く澄まさなければ。

 誰の目にも最高の男と成り果せ、己を育ててくれたふたりの名を世へ知らしめるために。


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