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64.義人

『預かりって形でテスト受けてみねぇかって話来てんぞ』

 ある日オヤジに言われた彼は、迷うことなくうなずいた。

『移籍じゃねーならやんよ』

 ボクシングを学ぶ中で思い知っていた。競技としての知名度がキックボクシングよりもボクシングのほうが段違いに高いことは。

 名前が売れれば金が稼げる。金が稼げればジムは潤う。その後でキックボクシングに移れば、競技そのものを盛り上げてさらなる金を稼げるかもしれない。

 受ける以外の選択肢があろうはずはなかったのだ。


 オヤジとかーちゃんはほっとした顔をする。

 それはそうだ。

 義人のボクシング適正がキックボクシングを遥かに上回っていることは、誰の目にも瞭然。そして16歳になった彼の将来が学業で拓かれることは、残念ながらありえぬことも痛感している。

 だからこそ。彼によりよい先を与えてやれるようにと苦心を重ね、それこそ己を曲げるを厭わず駆けずり回ってきた。

 そうしてようやくこちらの我侭を飲んでくれるジムを見つけられたのだが……辿り着くまでには酷い苦労があった。義人を高く買ってくれた有名ジムの、間接的な妨害を受け続けたせいでだ。

 プロモート面でも名の知られた有名ジムが敵になるとなれば、これからも様々な苦労が待ち受けていることだろう。

 されど、こちらがへこたれてはいられない。それこそこれから義人の人生は始まるのだから。


『ってなりゃ、階級決めねぇとな。小僧、今65キロくれぇか? ライト(およそ61キロ)でどうよ?』

 苦い予感を噛み殺し、オヤジが言えば、

『スーパーフェザー級(およそ59キロ)はどうかしらあ? 無理な減量にならないと思うんだけど』

 かぶりを振ってかーちゃんが返す。

『小僧ぁ筋肉太ぇからなぁ。あんま減らすとやべぇだろ』

『あらあ、今だってちょっと絞ったら2キロくらいすぐでしょお? だったらあと4キロだし。水抜き考えたら3キロくらいで――』

 言い合うふたりへ、されど義人は生真面目な顔を向けて。


『ウェルターで行くわ』


 オヤジとかーちゃんが目を丸くした。

 ウェルター級はライト級より2階級、スーパーフェザー級よりも3階級も重い。

 ボクシングが細かな体重制限をかけている理由は、数キロの違いがおそろしく大きなものであるからに他ならず、それは義人も重々承知しているはずなのに。

『いやいや、そりゃ減量いらねぇから楽だろうけどよ』

『みんなアンタよかでっかいのよお!? パンチ届かないでしょお!? そもそも体重だってリミットいっぱいいっぱいじゃないんだし!!』

『ウェルターじゃねーとダメなんだって』

 本来義人が目ざすべきライト級にもスーパーフェザー級にも、すでに日本人の世界王者が存在する。

 だが、ウェルター級は今なお日本人が世界を獲れておらぬ階級のひとつだ。だからこそ、ここで結果が出せれば人々の注目を集められる。

 ナチュラルウェイト65キロの小僧が一攫千金を志すなら、ここしかない。


 ぎこちない言葉でそうと説明した後、さらに義人は言った。

『リカバリとかズルしねー。ガチの俺じゃねーと意味ねーよ』

 リカバリとは試合に際しての計量後、減量で損なった栄養や水分を補給する行為を指す。コンディションが整うことは無論だが、これによって取り戻した体重が大きくなるほど、強く重い打撃が為せるわけだ。

 そのメリットをもれなく投げ棄て、挑む。

 まったくもって自殺行為としか言い様がなかったが、それでも。


『俺マジでバカだけど、バカやめらんねーし、やめねー。だったらガチで押して忍ぶっしょ』

 こう言われてしまえば、大人ふたりが妥協するよりなかった。

 彼にどこまでも彼であることを押し通せと教えたのは他ならぬ己だ。

 そして、だからこそ、それをまっすぐ貫きたがる義人の有り様が誇らしくもあって。

『……やばそうだったらすぐやめさせっからな』

『押忍!』




 果たしてプロテストを難なくクリアした義人はデビュー戦に向け、オヤジのジムと預かり先のジムを往復しつつ学校へも通う。

『死ぬ……マジ死んじまう……』

 弱音を吐きつつ、おぼつかない足取りで行き来する日々はまさに地獄そのものであったのだが、しかし。


『あれ通ったって連絡きたわよお!!』

 下校してきた義人をかーちゃんがハグを超えたベアハッグで抱き絞める。

『アレってアレ?』

 なんとか声音を絞り出せば、オヤジもまた反り返った彼の背をバシバシ叩きながら突き出してきた。

『おう! こんでおめぇ、義人だぜ!』


 それは家庭裁判所から届いた、改名を許可する旨を記した書類だ。

 彼の本来の名は相当酷いキラキラネームで、これが社会生活上著しい支障をきたすものとして申し立てていて。1ヶ月余り待たされはしたものの、無事許可が出たのである。

『ありがとございまっす! 義理と人情、義人っす!』

 義人という二文字が胸の真ん中で輝きを放つ。安っぽくキラキラしているだけの以前のものとはまるで違う、真実のきらめきだ。これこそが貫きたい己を象徴する唯一無二の名だと、誰に恥じることもなく掲げられる。

 それを日本という国に認めさせられたことが、なにより誇らしかった。


『大丈夫だって思ってたけどよ、デビューに間に合ってよかったぜぇ。それにしてもよ、義理と人情で義人。ガチでいい名前だぁなぁ』

 眦に浮いた涙を上向いて隠すオヤジと、その太ましい体へそっと添い。隠すことなく涙を流すかーちゃん。

 義人となった義人は誇らしげにうなずき、そして。

『そういやリングネームってなにつけてもいいんだよな?』

『アンタまさか、せっかくの“義人”隠す気!? そりゃ前の名前のほうがキラキラしててインパクトあるけどお』

 彼の唐突な言葉におろおろするかーちゃんへかぶりを振って、言葉を継いだ。


『飛田義人でやる』


 飛田はオヤジの名字。

 それを背負いたい理由は、示すがためだ。

 己が誰の家族――息子であるものかを。


 プロテストを通った際、オヤジと養子縁組をすることも、実は話に出ていたのだ。

 行方不明となっている母のことや他の問題もあり、すんなりと認められはしないだろうが、それでも。

『こいつは俺の勝手だぜ。勝手になんだけどよ。おめぇがマジの息子になったらよ、ガチでいっこ成し遂げたって思えんだろ』

 そのとき、どう表せばいいものかを本気で悩んだものだ。

『俺も、オヤジがマジのオヤジになったらさ、ガチでやばい』

 だが、その最高の喜びを噛み締める前に、しておきたいことがあるのだ。

『世間様に見してやりてーんだ。オヤジとかーちゃんに育ててもらった俺ががんばってさ。これが飛田家だぜかっけーだろって!』

 そう。オヤジとかーちゃんと義人、誰ひとり血の縁を持たぬ飛田家の絆の確かさを世に知らしめる。

 そのためにこそ、彼はボクシングをやると決めたのだから。


 リングネームを告げられて言葉を押し詰めるふたりへサムズアップ。義人は笑顔をうなずかせた。

『オヤジとかーちゃんの息子、ガチでやってやっから』

 ふたりの息子としての覚悟と決意を込めて言い切る。

『おめぇ、マジでバカだなぁ。ったくよ、ガチで大バカもんだぜ』

 オヤジのくしゃくしゃの笑顔が、ざらりと質感を損なった。

『アンタはほんとにバカなんだから。アタシのことかーちゃんって……ありがとね。ほんとにありがとねえ』

 かーちゃんの泣き顔が歪み、薄れて。




 暗転。




 なにもかもが失せた暗闇のただ中、義人は絞った息を吹き抜く。

 己が半生だというのに、主観ではなく客観で見せられた。おかげでいくらか、当時の己では気づけなかったことにも気づけたのだが、さておき。

『誰だアンタ』

 いつの間にか向かいに在った“アンタ”は大きくかぶりを振り。

『まあまあ、誰だっていいじゃないか。私が初代王者だなんてどうでもいいことだよ』


 エルバダ顔と言えばいいのだろうか。異世界で見てきた人々と同じ特徴を持つ、己の世界の人間とはまるで違う、されど一応は爽やかそうな顔の男が肩をすくめてみせて。

 気取った仕草に匂い立つものは聖女王やその娘であるカラスナ、セルファンに共通する、つまりは気品だ。

 と、次の瞬間。

 初代王者だと名乗った男が一気に押し迫ってくるではないか。


『んだよ!?』

 思わずファイティングポーズを取れば、初代は義人の拳を『まあまあ』、手首から先が消失した両腕でぽんぽんと叩く。

『アンタ、手』

『ああ、君に進呈したから当然ないわけさ。それよりもだ、どうして肝心なところを隠すんだい? オヤジ殿から授かった教えは君の根幹、芯なんだろう?』

 品よくため息をつき、男は両腕を挙げて“お手上げ”を示したかと思いきや。

『それが知れなくちゃ、君を騙せないじゃないか』

 それはもういい笑顔で言ってみせたのだ。


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