呪の影響から王都が解放されたのは、2度の夜明けを過ごした後だった。
不眠不休で治癒にあたっていた女王は国内へ事態の終息を宣言。その後も諸々の後始末を為すため、疲弊しきった身へ鞭打ち、今も働き続けているのだが。
義人が家にしている側防塔からひとつ離れた側防塔。
仮の主としてそこを使っている花子は、使用人たちが気を利かせて運び込んでくれた豪奢なソファへだらしなく身を預け、冷めた茶を啜り込む。
だらけているだけのように見えるが、その実術式を編み、王都の監視を続けていた。
エルフの残党、どこぞの盗賊、暴徒……機に乗じようという輩がおらぬとも限らない。面倒なことだが、騒動が決闘の内に含まれた上は、王者一行のひとりとして働かなければそれこそ筋が通るまい。
「国難なんだから、部外者のあたしより君が働くべきだろうに」
宙へ向けて言の葉を投げれば、苦笑交じりの台詞が返り来る。
『私が化けて出たら騒ぎが収まるどころか大きくなるだけさ』
空気が靄めき、かろうじて人型を取る。
なにもかもがあいまいで、しかと見定められはしなかったが、それでも瞭然だ。
人型が、二代めの手から抜け出てきた先代の残り滓であることは。
「話をするのは久々だね。今じゃなくても1回くらい化けて出てきたらよかったのに」
数百年の間、あの狭間に手は在り、先代の意思もそこに在った。されど一度たりとも彼は顕れず、花子は犬の仏頂面を見るばかりだったのだ。
対する先代は彼女の言葉に品よく肩をすくめてみせ、ついでにゆるりとかぶりを振って、
『顔を合わせれば急かしてしまいそうだったからね。が、待った甲斐はあったよ』
なにを? 聞き返すまでもない。
義理と人情、飛田義人をだ。
花子は皮肉を込めてひとつ鼻を鳴らし、「確かにあれは拾いものだった」、そう言い置いて次の瞬間、表情を鋭く引き締める。
「どこまで視た?」
『彼が彼になるまでを。もっとも、本当に大事な約束は隠されてしまったよ』
「そうかぁ」
彼女の無表情の奥にあるものは、本当に小さな失望だ。
見て取った先代は朧な顔をふわりと緩め、笑った。
『玲瓏なる竜魔ともあろう者が、ずいぶんと入れ込んだものだ』
竜魔は人の意思を読み解く術式を
それ以前に、呪師の傀儡と闘う際には思考を繋いだのだ。記憶を引き抜くなど容易いことだったはず。
だというのに、義人が隠している約束について、事もあろうか先代へ問うなど……
「笑うかい?」
『いや、彼に嫌われたくないのは私も同じだからね』
花子の眉根が跳ね上がる。
義人が約束バカなら、先代は使命バカだ。それを果たすためだけに生き、果たしきれずに死んだ。
手が継がれた当初、先代は己が力を逆巻かせて二代めを駆り立てたものだ。それこそ花子が干渉しなければ、なにもかもを破壊し尽くすばかりの勢いで。
しかし、シャザラオ戦の終盤から先代の干渉は弱まり、呪師戦時にはほぼほぼ沈黙を貫いた。
その理由がまさか「嫌われたくない」からだとは……いや、笑えない。言われてみれば自覚するよりなかった。
「人に慣れすぎたせいで人に成りすぎたのかもしれないなぁ」
ぽつりと漏らした本音を笑い飛ばすことなく、先代はただ静かにうつむいた。
さすがに二代めより空気を読んできたが、気遣いなどではない。なにかしらの言葉を返してくれればこちらは「そうだね」と返すだけで収まるというのに、収めさせるどころか自覚しろと強いてきたのだから。
嫌われたくないのは同じか。
そうだね、わかってるさ。
なにをどう言いつくろったところで、結局あたしは嫌われたくないんだよ。先輩だからさ、初めてできた後輩ってやつを。
でもね。
義人は他人のために生きるのでなく、他人のためでなければ生きられぬ男だから。
そうとなるよう彼の魂を呪縛してくれたオヤジとかーちゃんに、花子は感謝するよりなかった。おかげでバカらしいほど己を信じてくれる後輩に甘え、己の都合を果たせと強いられる。
カラスナに聞かせたなら「それでは筋が通りません!」と罵られるだろう、我が侭。わかりきっているのに、それでも弁えてはやれなくて……
「君の使命を継いだと後輩くんは言った。それを負わせるのは早すぎたよ」
結局話題をすり替えてごまかすよりない彼女の心情を知ってか知らずか、先代はあっさりとごまかされ、問いを返してきた。
『本当にそう思うのか?』
「今は経験を積ませるのが先だ。使命のためにも都合のためにも」
知ってしまえばそれに向かって突っ走るのが義人という男の性だ。異種との闘いに慣れさせ、力の必要性を覚えさせなければ――死ぬ。
『君は相変わらず過保護だな』
当然の懸念であることは知れているはずなのに、先代はそのひと言で片づけて、言葉を継いだ。
『私たち人間は脆い。だが、目ざすべき先が定まれば艱難辛苦を踏み越え、進んでいけるものでもあるのだよ』
それこそ先代が数多の不可能を覆して進み、使命の喉元へまで踏み込めたように。
言外に含められた意はわかる。だが、先代とて成しかけただけで、成せはしなかったのに。
ああ、確かにあたしは過保護なのかもしれないな。胸中でうそぶいた花子はかぶりを振って感傷を払い落とし、整えた声音を紡ぎ出した。
「ともあれあたしは後輩くんが死なないよう力を尽くす。だからあたしを拒むなよ死んだ王者」
死者は黙って死んでいろ。とまでは言わずとも、すべては生者が為すべきことなのだから。
『確かに君は生きているからね。尊重するよ。だが、私は彼を生かすためなら死者の
靄が濃さを増す。
こうとなればはっきりと見て取れた。先代の表情が口調の軽さに反し、厳しく引き締められていることが。
『本当の君は、なにをどこまでできる?』
玲瓏なる竜魔は並外れた魔術ばかりでなく、本当の本気を出せば呪術だろうと治癒術だろうと遣いこなせるのではないか?
数多の決闘を先代が勝ち続ける傍ら、竜魔もまた数多の死闘を演じ、やはりすべてに勝利してきた。その闘いを見ることはついぞなかったが、しかし。
あまねく
「さてね。あたしに術師の
平らかな返答に練り込まれた、意志。
明言を避けながらもけして読み違えられぬよう整えられた言の葉に、先代は口の端を上げてみせる。
『なるほど。貫いてくれるなら今はそれでいい。だけれどもね』
靄めきを速やかに散らしながら言い置いていく。
『君の思う通りにはさせない』
「……気障な小僧がいけすかない気障に成り果せたものだ」
冷め切った茶へ術式を送り込んで程よく熱し、ひと口啜り込んだ、そのとき。
「先輩なんか幽霊! 幽霊出たんすけどー!」
タイマンで見せるフットワークはどこへやら、義人がばたばた駆け込んできたのであった。
「先代だよ先代。今の今まであたしにウザ絡みしてたんだ」
そもそも君、あれとは面識があるだろうに。顔を顰めて言い返せば、単純バカはぱあっと表情を明るくして、
「先代っすか。そっすね、だったらいーっすわ」
得体が知れていればそれでいいのだ。結局のところ、その程度の関心しか持ち合わせていないから。
義人の他人への興味は相当に低い。花子のことは先輩と慕っているらしいが、そういえばバイトを辞めた彼女を見送った彼の態度は酷くあっさりとしていた。
なにもかもが、その程度。
はてさて、王女は心折れる前に彼を振り向かせられるだろうか?
と、それはさておいて。
「君はなんだい? ウザ絡みならもう十二分だよ」
「あ、いや、すっげー大事な質問あるっす」
秒で帰らせたい先輩の気持ちに気づくことなくその場に正座、背筋を伸ばして、義人は問うた。
「なにしたら竜とタイマン張れるっすか?」