「王者殿のご勝利、心よりお祝い申し上げます」
自ら広間の大扉を開き、王者を出迎えた女王は彼の顔を見上げ、ひとすじの涙をこぼした。
「よくぞ、ご無事でお戻りくださいました。わたくしは、誠に――」
言の葉を詰めて顔を伏せる彼女の様に、義人はおろおろと花子を返り見て口パクで助けを求めたわけだが。
『ここだ! 強めのボディタッチだ! 王者と王配、似てるしお似合いだよひゅーひゅー!』
念話的なものまで遣って煽ってくる。
カラスナのとき同様、尊敬する先輩はまるで助けてくれない。
相変わらず犬も役に立たないし、もう絶望しかない状況である。
俺、もしかしたら幸せじゃねーんじゃね?
と、彼の脇からカラスナがずかずか進み出て、母を支える……いや、押し返した。
「王者殿は死闘を終えられたばかり! 心身共に疲弊されておられますので母上はまず民の治癒にご専念ください父上もどうぞご助力を!」
女王の斜め後ろで泣きわめく隙を窺っていた北端侯にも圧をかけておいて、今度は義人へ向き合い、押す、押す、押す。
「ささ、王者殿は速やかにお休みください。あなたがいては皆が落ち着きません」
なにやら斜め下から凄まれてしまって、義人はなにも言えぬまま広間から押し出されるよりなかったのだ。
「じゃー俺、呪師んとこ行ってきまっす。ちっと話してーことあんで」
正気を取り戻した北端侯が目線で合図を送れば、速やかに北端の士が先導を買って出る。
それを見送った花子はひとつ息をつき、患者の治癒へと向かうカラスナに並んで語りかける。
「覚悟は決まったみたいだけど、後輩くんのアレは受け容れられたのかい?」
「王者殿の狂気をですか?」
さらりと言い返したつもりなのだろうが、声音の力み具合で丸わかりだ。
あのバカが狂っているからといってなにか問題でも? 竜魔へ正しく見抜いていることを示した上で余裕を見せつけたい。
ほんと、これは聖女の血だねぇ。花子は苦笑し、うなずいてみせた。
「そうだね。後輩くんはイカレてる。異世界だろうが元の世界だろうがどこにいたっていいんだ。彼を動かしてる約束はガチのガチでなきゃ果たせなくて、それができさえしたら他はどうでもいい」
飽きることなく同じものを食い続け、同じ鍛錬をし続けられるのは、普通の人間がなにより重要視する営みというものへ対し、一切の興味がないからだ。
結局のところ、花子の都合も先代の使命もこれから抱え込むしがらみも、彼にとってはなにもかもが燃料に過ぎない。
約束を果たす。魂を文字通り呪縛……彼にとっては寿縛であるそれを成し遂げるまで、己を駆り立て続けるがための。
おおよそを理解しているはずのカラスナはしかし、顎先をそびやかして鼻息をひとつ噴き、苛立ちに赤髪を膨れ上がらせながらもやけにやわらかな声音で宣言した。
「あたくしが叩き込んで差し上げます。あの方が約束とやらのために棄てられたすべてを今一度」
「へぇ、なんでまたそんな面倒なことしようって?」
にやけ面をした竜魔が期待する答などわかりきっている。
故にカラスナは眉根を顰めて否定を示し、
「王者殿には生きるを選ばれた責を果たしていただかなければ。そうでなくては筋が通りませんので」
そう、あの男には生きてもらわなければならない。しかと食らい、しかと眠り、しかと務めて苦楽に心を浮き沈みさせて……正しい人生というものを全うさせなければ。
と、言い切ったはずなのに。
「後輩くんにとってエルバダの人間はみんな異相だよ。麗しの王子様くらいだね、顔面で彼の美的感覚を叩きのめせるのはさ」
したり顔で話の方向を一気にねじ曲げられ、カラスナは怒り焦ってわめく。
「何故そのような話に!?」
「さて、どうしてなんだろうね。ってくらいで収めときたいところかな」
ふわっとかわした花子はしかし、急に生真面目な表情を作り、
「いや、これだけ言っておこう。君たちのご先祖様、つまり透白の聖女は初代王者をそれこそ狂信してなにもかもを捧げ尽くしたけど、使命のことしか頭にない彼を捕まえられなかった」
約束のことしか頭にない後輩くんを必死で追いかけても同じことになりかねないよ?
言外に告げられた意を払い退けるようにかぶりを振って、カラスナは真っ向から竜魔を睨みつけた。
「誤解をされておられるようですけれど、あたくしは王者殿に筋を通していただきたいばかり。毛先ほどの情も抱いてはおりません。ですが、あくまで仮にと前置いて言わせていただくならば」
目を逸らさず、身を逸らさず、心を逸らさず、直ぐに言い放つ。
「それで悔いる程度ならば、あたくしもその程度かと」
対して花子が返したものはといえば……なんともほろ苦い笑みであったのだ。
「突っ込んでいったって逃げるだけだよ、あれは。それでも追いかけるんならまあ、やっぱり覚悟しておくべきだね」
言い置いて、広間から出て行く。
治癒術が遣えぬのだからここにいても無意味、引き止める理由はないので見送ったが……どうにもなにかが引っかかる。もっとも、そのなにかの得体はさっぱりわからない。
が、今のやりとりから思い至ったことはある。
王者が竜魔に懐いているのは、彼女が距離感というものを保っているからだ。
気安い付き合いを演じながら一定内へは踏み込まず、彼という人間を深く探ろうとしない。義人にとってこれ以上なく都合のいい存在、それが玲瓏なる竜魔なのだ。
あたくしもそうと演じさえすれば、王者殿の信を得られるのでしょうね。
ですけれど。
あたくしは演じることなくあなたと向き合い、無理矢理に胸襟をこじ開けて嫌がろうとも逃がすことなく組み伏せ、生きる喜びを捻り込んで差し上げたいのです。
なぜなら、そうでなくばあたくしの筋が通りませんから!
筋が通っているとはとても思えぬ厄介な意志を燃え立たせ、彼女は今なお回復しきれておらぬ患者に爪先を突き刺した。
絶叫を聞きながら爪先を捻り込み、呪の残滓を引き抜いて、さらに誓う。
引きずり出して差し上げますよ、王者殿!
この世界のただ中へ!
呪師は地下牢ならぬ主塔――ベルクフリート。中世ヨーロッパの城によく見られる背の高い塔である――の最上階に監禁されていた。
子供とはいえ対抗手段のほぼ存在せぬ呪の遣い手だ。呪具となりえるものをもれなく取り上げた上で他のエルフから切り離す。どれほどの意味があるものかはともかく、当然の措置ではあろう。
見張りに置かれた兵の制止は完全無視。勝手に鍵を開け、室内へ踏み入った義人は、壁へもたれて苦しげな呼吸音を鳴らす呪師へ無防備に近づいた。
「死ね……」
ぶっ。呪師はかすれた呪詛に加え、唾を吐きつける。
「死なねーよ」
見事なフットワークで横合いへと避けた義人はあらためて呪師を見やり、その痩せ細った身を縛める鎖や拘束具がないことに安堵の息をついた。
「なんだよ、きもちわるい!」
「や、縛んねーでくれって頼んどくの忘れてたんでよ。縛られてねーでよかったわ」
えらそうに!
名なしを叩いてゲロ吐かせたおまえが「よかった」!? きもちわるいきもちわるい!
総身を泡立たせ、背を壁へべたりと押しつける呪師。酷い筋肉痛で体中がきしみ、打たれた胃の腑がずぐり、低く疼いて。
「――っ」
たまらず涙が吹きこぼれるが、それでも王者から半歩分遠ざかることに成功した。そう思った矢先。
「腹いてーか? あれだろ、やばいもん食ったもんな」
当の王者は2歩分も距離を詰めてきて、真ん前にかがみ込んだのだ。
おまえがなぐったからだよ!? 言い返したくとも喉には疼痛の塊が詰まって音が出てこなかったし、体もまるでうまく動かなくて。
もがくにも届かぬ蠢きを演じる呪師の心持ちを読み取ることなく、王者は目をしばたたいて思いついた顔をして。
「背中かいーんだろ? 掻いてやろか?」
「死ね!」
さすがに読み違えたのだということは義人にも知れた。
いくらか大人になったつもりだったが、空気を読むのは相変わらず難しい。
だから、はっきりとわかっていることを口にしよう。
「おまえ、俺のこと殺してーんだろ?」
「死ねよ。すごく痛くなって、すごく苦しくなって、死ね」
口の中が乾いていて、もう唾を書きつけることもできはしない。せめて威嚇しようと歯を剥き出してみたが、王者は意に介すことなく言い返してくる。
「わりーな。俺ぁ死なねんだ」
その自信に満ち満ちた言い様が呪師を激しく憤らせた。
死なないとかなんだよえらそうに!
名なしのしたいこと全部ぶっこわしたおまえなんかきらいだ、大きらいだ! おまえが死なないんなら名なしがころしてやる!
手足は満足に動かぬが、なんとか倒れ込んで噛みついて、皮の1枚でも千切ってやる……萎えた筋肉を震わせ、弾みをつけようとしたそのとき。
「だったらよ、もっかいマジのガチで殺しに来いよ」
「は?」
たまらず疑問を口にしてしまったせいで体が硬直し、弾みが霧散して。
いや、本気で言ってなどいまい。呪師にはもうなにもできぬと高をくくっているだけのことだ。どこまで傲慢で驕慢で高慢な男であるものか。
胸底へ滲み出てきた靄めきが怨恨を燃え立たせ、呪師の喉を突き上げた。
王者の頭がおかしいことは嫌というほど思い知らされた。
されど、だからといって、己を一度殺した相手に、もう一度殺しに来いだと?
「おまえ、ころされたいの?」
「んなわけねーだろが」
王者は顔を顰めて一蹴し、長め坊主の頭を指先で掻き掻き、言葉を継ぐ。
「でもよ、おまえが殺してーんだったらそっちが大事だろ」
だめだ。どんな心持ちで言ってきているのかさっぱりわからない。ただ、これだけはわかった。頭がおかしい奴というものは、本当に頭がおかしいのだ。
呪師の納得顔を曲解したものか、王者は満足げにうなずいた。
「いっこだけ言っとくけどよ、俺だけだぜ? よそのみなさんはナシな。俺だけだったらいっくらでもぶっ殺していいからよ」
やはりわけのわからないことを強調しておいて、弾みをつけて立ち上がる王者。
あのときにも見せた顔いっぱいの笑みを呪師へ向けて、
「なんかすげー呪いの修行とかしてよ、俺のことぶっ殺せんぜってなったらいつでも来いよ」
おそろしいことに嘘ではないようだ。
この男は本当の本気で言っている。それだけは疑いようがなくて。
毒気を抜かれてしまった呪師は、ぽろりと感想を述べてしまった。
「おまえ、ほんとのバカだ」
「まー、実はちっとアタマわりーんだ」
秘密を打ち明けるような顔で言われても……
さすがに困惑する呪師であったが、王者はまるで気づくことなく身を翻す。
「でも俺、おまえが殺しに来るまで王者やってっからよ」
約束な。
ひと言を残し、あっさりと出て行ったのだ。
呪師は目をしばたたき、小さくかぶりを振る。
名なしはこの後、人間に殺される。万一森へ逃げ帰れたとしても、長に殺される。どちらにしても死ぬ。わかりきっているのに――なぜこうも心が躍る?
約束、したから。
これまで、なにももらえたことなどなかった。
虐げられ、苛まれ、果たすことを強いられて、ただただ生きてきただけ。
だが王者は、名なしを待つと約束したのだ。
それは呪師が生まれて初めて誰かと結んだ、縁。
行くよ。
生きてたら這ってでも行く。死んだらタマシイになって行く。
だって、王者はころしに来いって言ったんだ。名なしじゃないだれかにころさせたりしない。転んで死ぬとかもだめだ。
この手でかならず「ころすよ。名なしがぜったい、ころしてやる」。
明かり取りの窓から見える空は実に青々しくて、最低最悪に清々しい。
幼い頃は飛びたいと願った空。
今日の今日まで、赤く塗り潰したいと願ってきた空。
今はまた飛びたくてたまらない、空。
飛べたなら、すぐにでも王者のところに行けるから。
義人に知る由はない。
呪師が少年ではなく、実は少女であることを。
たった今、彼女の胸に怨恨ならぬなにかを点してしまったのだということも。
本当になんでもない、ささやかなことで救われるのはなにも犬に限った話ではないのだが、そもそも彼は約束以外のことに関心がないので、犬が犬であればそれでいい。己がなにを為し、成したとてどうでもいいことだから。
ともあれ彼は側防塔へと向かい、やはり彼になにかを点されてしまった王女から、治癒という名の酷い目に合わされるのである。
「いやいやマジいってぇーからもーいてーんだって!!」
「呪の欠片を除去しきったことを確かめられるまで逃がしません! 話によれば押して忍ぶとはそうしたものなのでしょう!? 筋を通しなさい!」
ぁぎゃああぁあああぁあぁあ!!