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80.奇襲

 セルファンに同じ拳での二連撃、通称ダブルを教示した後、義人はひとり城壁の上でシャドーボクシングを演じている。

 サイドステップを踏み止め、ヘッドスリップに乗せて左ストレート、右フック、左アッパーカット。スウェーで上体を引かせて左へ振り込み、回り込ませながら左右左右、ボディブロウを連打して、後ろに置いた右足を左へ流した直後、畳んだ左右の腕を高速で振り込み胃を叩き叩き叩き。

「どちら様っすか?」


 夜陰の奥より現れた人影は、女。

 輪郭をなぞることなくふわりと渾身を隠す白衣を前へと押し進めて王者の前で膝を折り、恭しく頭を下げて、

「夜分に失礼いたします。使いとして、明日の詳細をお報せに参りました」

 女の唇が参りましたの「ま」を紡ぎ終えると同時、義人はバックステップで2メートルを退いていた。

 と。

 その1メートル前方で、ついた膝を伸び上がらせ、左下から右上へと右手を振り上げる女の様が見えて――ブォウ。遅れて来た野太い風切り音があわや、胸先をかすめゆく。


 女が振り上げたものは、剣ならぬ片手用の棍棒。

 義人に知る由はなかったが、分厚い甲冑の上から敵の身へ文字通りの痛打を叩き込む武具、硬鞭こうべんである。

 彼女がボディラインを見せぬ衣をまとったわけは得物の存在と共に、剣よりも相当に重いそれを振るえるまで鍛え抜いた肉を隠すためであったらしい。

 当然義人に見抜けようはずはないのだが、ともあれ。


わっ!」

 思わず素直な感想を述べつつ、義人は手を構えぬままサイドステップでもう一歩分の距離を空けにかかった。

 が、遠心力に身を乗せて軽く踏み出した女は殊更に重い一打を振り下ろし、先を塞いでくる。

 うめーな、マジやばい。

 胸中で唸った彼は咄嗟に鞭先をパリングで弾きかけて止め、踵へ重心を移して己の軌道をねじ曲げると、剣で言えばはばきにあたる持ち手近くを左掌で押し上げた。

 鞭が浮けば脇が空く。前へ置いた左の爪先へ全体重をかけ、その一点へ左拳を打ち込んガヅッ。

 捻り込むより先に硬い応えが拳を揺らし、弾き返して。

 浮き上がった左手を急ぎ引き戻すと、ずぐり。鞭の中程が王者の畳んだ肘を外から打ち叩き、横合いへとよろめかせた。


 違うな。王者殿は自ら引いた。

 彼とは逆へ踏み出した女――ヒルドナは濃い化粧で塗り潰した顔を歪めて大きく息を吸い、衣の下でいくらかひしゃげた薄鎧を押し返す。

 こちらの打撃が肌へ触れるやいなや身を流して衝撃を逃がしたとなれば、王者はこちらの攻めを待っていたということになる。しかも、当たった瞬間に息を吹き抜き、いくらか己へめり込ませておいて踏み止まり、筋肉を固めて弾き飛ばしさえしてみせたのだ。

 理解するよりない。彼はそれをするがため、半歩に満たぬ距離を躙り出、鞭がもっとも破壊力を発揮する先端を避けたのだと。

 ……王者殿の目の鋭さは対勇者戦で見知っていたつもりだが、よもやこれほどのものだとは。

 彼女とて徒手格闘は相応に修めている。王者の繰った体技の真実を見極められたのはそのおかげであるのだが、到底真似ができぬことを察してしまったのは逆にそのせいだった。


「……名乗れぬ無礼、何卒ご容赦を。できうることならば貴殿にひとつ傷を刻ませていただくもまた同じくご容赦いただきたい」

 恐怖と感嘆とを噛み締めてしまわぬよう努めつつ、ヒルドナが言えば。

「アンタが誰だっていいけどよ、そんなてーのでぶん殴られたらてーっしょ。なんでお断る!」

 なんとも頭の悪そうなことを言い返してくる王者。


 が、頭の出来不出来はどうでもいい。

 考えるべきは、王者が決闘に特化した闘士である事実であり、対する己が決闘ならぬ戦に順応した武辺である現実だ。

 とはいえ、この場においてどちらが勝っているかなど考えるまでもなかろう。奇襲をこうも見事に凌がれた今となってはなおさらに。




 この一幕を膳立てしたのはカラスナではない。

『王者殿はこれより思わぬ怪我を負われることとなりましょう。その後の私の扱いにつきましては如何様にでも』

 王者を襲って怪我をさせる。その後は犯人として己を捕らえて断罪してくれるように。

 なかなかにとんでもないことを言い出した娘へ、北端侯は口の端を上げて返したものだ。

『儂がどれほどの面倒と厄介を方々《ほうぼう》から押しつけられているものかは知っておろうが。あとひとつ増えたところで、この首ひとつで片づく程度というものよ』

 そして表情はそのままに声音ばかりを引き締めて。

『思うままにせよ。王者殿に北端の仕掛けと報せて構わん』


『ついでにあたしの名前も出していいよ。こんな機会はなかなかあるもんじゃないしね』

 驚いたことに、どこからか姿を現した玲瓏なる竜魔もまた薄笑いながらうなずくではないか。

『ぐう』

 こちらもどこからやってきたか、ぬばたまの閃牙すらも不満げに鼻を鳴らしはすれ邪魔をしてくる様子はない。

『不躾ながらお尋ねいたす。機会とは?』

 とまどいながら訊くヒルドナへ、竜魔はあっさりと答える。

『そりゃもう、王者に対武器の戦闘経験積ませる機会だよ。ぜひとも痛い目に合わせてやってほしいところだねぇ。君、腕には覚えがあるんだろう?』

 魔術師風情に武人の程が計れるものか。沸き立つ反発心を押し止め、ヒルドナは状況を整理した。


 彼女が入室する以前から竜魔と閃牙はこの場に在ったと見るべきだ。

 だとすれば父へなにかしらの話を持ちかけにきたのだろう。そして己が切り出した奇襲話、それがこうもすんなりと受け入れられ、北端や王者一行の助力をすら受けられるとなれば、竜魔の話がまさに王者奇襲であったと考えるべきだ。

 そこへ悲壮な決意を抱いた小娘が踏み込んできたとなれば……鴨葱以外のなにものでもあるまい。


『……折良くこの場へ踏み込めたものと、己を褒めてやってもよろしいか?』

 低い声音を絞り出せば、それはもう人の悪い笑みが父と竜魔から返り来た。なにより明白な正解の報せである。


『さて、我らはめでたく共犯者と相成りましたな。これを機に儂とも初代と等しき縁を結んでいただけたらば幸い』

『こっちからもお願いするよ。北端はあたしにとっても縁の深い土地だし、そうじゃなくてもいろいろと関わることになるだろうしね』

『そうといえば娘よ、ぬしの奇襲につけるは小隊ひとつで足りるか? 儂は中隊で押し包むが無難と見るが、側防塔のあたりは幅が狭い。どこに配するかが難儀よなぁ』

『あたしのほうは君の妹御を抑えとこう。せっかく怪我させても癒やされるんじゃ興醒めだろう?』

『ぐぅう』

 あくまで己ひとりが責を負うつもりであったのに、父と竜魔が速やかに話を物騒な方向へとまとめていく。


 とまれ申し出のすべてを断り、ひとり苦い顔で支度を済ませた彼女は夕餉の後の一幕を見届けて後、ついに踏み出した……のだが、しかし。




 機先を見切ろうにも、王者が細かにる歩は変幻で、いつ前へ踏み込んでくるものかが読み取れない。

 顔の前で軽く弾む両拳もまた、足が刻む拍子とは微妙にずらされており、どちらかに目を奪われれば一気に引きずり込まれ、打ち砕かれよう。

 相対して、知れた。

 二代めの王者は、おそろしく強い。


 父の言う通りに中隊を率いてくるべきだった。練度の高い兵の連動ならば、敵がいかに玄妙な技を繰れど一気に飲み下せたはず。

 そんな思いを汲んでくれることもないまま半歩を引き、王者はついに構えを据えた。

 その揺るぎなさを前に悔いを噛み殺し、ヒルドナは前へ押し出した鞭先をゆらめかせる。

 唯一の有利は、王者がこちらの技を知らぬことだ。とはいえ見られるほどに削がれる有利、のんびりとしてはいられない。

 故に。

「おおおおおおおおっ!!」


 彼女が唐突に響かせた太い声音が義人の足を釣り、引きずりだした。

 均衡というものは他愛ない刺激であっけなく崩れるものだ。幾多の戦場を踏み越えてきたヒルドナにとっては常識であり、利するもまた常道。

 己の呼吸を忘れ果て、半端に構えを崩したまま前へ出てきた王者の脇へ最短の軌道で鞭を振り上げた。と同時、遠心力を吸わせた右の下段蹴りで膝を刈りに行く。

 どちらが当たってもいい。どちらが当たらずともいい。たとえふたつを躱したとて、姿勢がいくらかでも崩れたなら、こちらはとどめを叩き込める。

 そのはずが。


「っ!?」

 足首を真っ向から突き抜かれ、蹴り足が落ちた。

 蹴り返され、落とされた――身が大きく傾ぎ、己の蹴りを受け止めて押し返した王者の足が視界に写る。同時、その端から割り込んできた右拳がヒルドナの脾臓を叩き、ガグジャッ。薄いとはいえ鋼を紙片よろしくくしゃりと叩き潰した。

「ふぅうっ!」

 骨がきしみ、肉が攣れる。それでも倒れることなく鞭を振り返したは、まさに武辺の意地であったのだろう。

 なれど、魂を込めたはずの一閃は気迫諸共王者の掌に巻き取られ、払われて。

 顎へ迫る左拳がふいに引き戻されていなければ、己は無様に崩れ落ちていた。


 いや、崩れ落ちろ!


「ぐっ、ひいぅっ!」

 あられなく尻餅をついた彼女は両脚をばたばたともがかせ、必死に間合を開く。

 王者は――追って来ない。

「げぼっ! ぐぇえっ! ぇげろろぉぇっ!!」

 激しく嘔吐いて胃液を吐き、衣をどろどろに汚しながら、ぎくしゃくと立ち上がった。

 酸い臭気に鼻を突かれてさらに嘔吐きながら、彼女は眦に涙を浮かせた目で王者を睨みつけて、

「なぜ、拳を引かれた……!? よもやこちらが女故に哀れまれたか!!」

 すると義人は生真面目な表情を向けて答える。

「ちげーよ」

 ここでようやくアップライトの構えを取った義人が続けて言った。

「アンタ呪師じゃねーだろ」


 ヒルドナの顔にかすかな驚きが浮き上がる。奇襲に対して憤ったのだと思ったものだが、人違いに対するものだったと知らされて。

「私が、呪師であればよかったと?」

 重ねて訊いてみれば、王者は大きくかぶりを振った。

「いやー、アイツまだ俺のこと殺せねっしょ。んで、ゲンコツくれて帰してやんねーとって思ってよー。でもあれだとちっと強すぎっかなーって思ったらアンタ誰だよって感じ?」

 申し訳ないながら、ヒルドナには彼の言葉がまるで理解できない。

 王者が下した呪師に王者が殺される? しかもその呪師は王者を殺せない? ゲンコツをくれるとは、幼子に親が落とすあれのことか? それが強すぎることと私が誰かの因果関係とは?

 混乱を力尽くで押し隠し、彼女は荒く保った息をそのままに心を据えた。


 王者は奇人なれど、今打った芝居はまだ効力を失いきってはおらぬはず。仕掛けるならばここだ。

 しかして、成すべきを為す。


「おおおおおおおお!!」

 先と同じ、されど気迫を据えきれぬ甲高い咆吼を迸らせたヒルドナが、吐き終える前に踏み出した。


 拙いとしか言い様のない彼女の一手は易く王者にいなされ、痛烈な一打をもって叩き潰されるものと思われたが。

 王者は足を止めたまま動かず、迫る鞭を迎え入れるばかりであったのだ。


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