第103話 赤い花びら
気がつけば、クロバラは草原に立っていた。
いつか見た、心の風景と同じ場所。
どこまでも続く青い空に、眠りたくなるような緑の丘。
いつか、こんな場所で、のんびりと過ごしてみたい。
そんな願望が具現化したような場所であった。
クロバラのそばには、長い髪をした女性が。
まるで当たり前のように、静かに佇んでいた。
クロバラも、彼女に対して言うことはない。
ずっと、一緒にいる存在なのだから。
2人のそばには、一輪の青い花が。
ゆらゆらと、咲き誇っていた。
「ここは、境界線よ」
「境界線?」
「ええ。反転魔法によって形作られた、あなたの心の境界線」
妻、ローズの言葉に耳を傾ける。
心の中に関しては、彼女のほうが詳しいのだから。
「これから、どうなるんだ?」
「さぁ、それはわたしにも分からないわ。反転魔法なんて、最新の技術なんでしょう?」
「それもそうか」
ここは、刹那の空間。
反転魔法を起動させる、特殊な光を浴びて。
自分が変化する、その間際なのだろう。
「外の世界に戻ったら、きっと全てが変わっているわ。これはそういう力なんでしょう?」
「ああ。ツバキが、ああなってしまった原因の力だ」
反転魔法、心を底からひっくり返すことで、その者の持つ魔法の性質を変化させる技術。
変化によって、強力な力を得られる可能性はあるだろう。
しかし、それに耐えられなかった場合、心は闇に飲み込まれる。
「もっと、なんというか。闇が襲ってくる、苦しむようなイメージだったんだが」
「ふふっ。思ったよりも平穏で、拍子抜けしちゃった?」
「まぁ、否定はしない」
ここはクロバラの精神世界。理想を具現化した、広大な草原。
反転魔法の光を受けながらも、何か変化したような兆しはない。
ただ、本当にそうだろうか。
鈍感なクロバラを見ながら、ローズは微笑む。
「でも、たまにはいいんじゃない?」
「どういう意味だ?」
「あなたは優しいから。気づいていないでしょうけど、いつも力を抑えてるの」
「そんなことはない」
「いいえ。あなたは鈍感だから、自分でも無意識なの」
ローズは分かっている、クロバラのことを。
もしかしたら、本人よりも。
「あなたは最高の兵士だった。でも、それは昔の話。現役を退いたあなたは、いつの間にか優しい教官さんになってたの」
それが、穏やかな青の理由。
優しさの証拠。
しかしその優しさは、いつしか兵士としての資質を殺していた。
「ちょうどいい機会よ。みんなに、世界に見せつけましょう」
「何を?」
「もちろん、あなたが誰よりも強いってことよ」
草原に、風が吹く。
近くに咲いていた一輪の花は、いつしか赤く染まっていた。
気づけばクロバラは、この空間に一人ぼっち。
だがしかし、別に気にすることはない。
いつだって、心で通じ合っているのだから。
――思いっきり、暴れましょう。
「……ああ」
光が、全てを置き去りにしていく。
上と下が逆さまに、異なるものへと変わっていく。
しかし、その中でも。
クロバラの立つ場所だけは、変わらずそこにあった。
◆
「なっ、なんだ!?」
何が起こったのか、シェルドンは理解が追いつかない。
クロバラに対して、反転魔法の光を照射したことは確か。
だがしかし、結果はまったく予想外なもの。
施術台に拘束されていたはずのクロバラは、完全に姿を消しており。
見たことのない赤い花びらが、華々しく舞っていた。
すると、赤い花びらは一箇所へと集っていき、人の形へと。
クロバラの形へと、形成された。
「ふぅ……」
何事もなかったかのように、クロバラは息を吐く。
見かけでは、先ほどと変わらないように見えるが。ツバキのように、精神に異常をきたしている可能性もある。
ゆえに、シェルドンは声をかけるのをためらってしまう。
すると、クロバラは振り返る。
変わらずに、落ち着いた表情で。
違いと言えば、ただ1つだけ。
魔獣を示す左目の色が、真っ赤に染まっていた。
「どうした?」
「い、いや。どうしたと言われても」
あまりにも普通の言葉に、シェルドンは返す言葉がない。
「なにか、異常は感じないかい? その、僕を殺したくてたまらないとか、周りを全部壊したいとか」
「ふふっ。ツバキの時は、そんなに酷かったのか」
戸惑うのも無理はない。
なぜなら、反転魔法を施された魔法少女は、これまでにツバキのみ。
どのような影響が出るのか、まるでデータが無いのだから。
「わたしは、大丈夫だ。少なくとも、自分が制御出来ないという認識はない」
「そう、なのかい?」
「ああ。確かに変わった自覚はあるが。まぁ、許容範囲内だ」
真っ赤な魔力が、全身よりほとばしる。
今までとは、段違いの魔力強度である。
「それじゃ、えっと。これを任せたよ」
「ああ」
シェルドンから、プリシラの手紙を受け取る。
これを守り通し、古き友の墓参りをするのが、自分に託された約束なのだから。
「あと、これも渡しておこう」
そう言って、シェルドンが持ってきたのは。
一本のサバイバルナイフ。
これまで使用したことがないのか、新品のように輝いている。
「これは、たしか。大昔に、お前にあげたやつじゃないか?」
「そうだよ。よく覚えていたね」
記憶だけではない。
2人の過去を示す証拠は、物質としても存在する。
「僕じゃ、持っていても仕方がないからね。今の君なら、上手く役立ててくれる気がして」
「確かに、武器としては使い慣れているが」
ナイフを、その手に。
まるで、昔から持っていたかのように、手に馴染むようであった。
真っ赤な魔力と、新しい武器。
クロバラの中で、何か合わさる音がした。
あとは、ここから脱出するのみである。
「障壁を、壊すのかい?」
「いいや。その気になれば、やれそうだが。こいつを壊したら、色々と他の部分にも影響が出そうだ」
「まぁ、確かにそうだけど」
行く手を阻む、女王の魔力で構築された防御障壁。
女王の魔力という性質上、ハイヴ内の他の設備にも繋がっているかも知れない。
ゆえにクロバラは、別のやり方を。
まっすぐに、頭上を見上げる。
「……」
全身を覆う魔力をコントロールして。
まるで、祈りを捧げるように。
これが、出来るということは。
なんとなく分かっていた。
かつて、アイリと速度対決をした時に、その兆しはあった。
「じゃあ、行ってくる。また会おう、シェルドン」
「ああ。期待して待ってるよ、クロガネ」
そう言葉を交わして。
瞬間、クロバラの身体は花びらへと変化する。
体全体が、散っていくかのように。
赤い魔力、花びら自体に、意思が宿っているのか。
そのまま天井をすり抜けて、遥か彼方へと飛翔した。
◇
地下の底、零領域から。遥かな上空、雲の上まで。
真っ赤な魔力が、柱のように光り輝く。
それに付随するかのように、ひらひらと、赤い花びらが舞い落ちて。
情熱的で、力強く。
その輝きは、イギリス全土を照らすようだった。
「そこか」
輝きの中心で、クロバラは仲間たちの居場所を探知。
魔力の粒子そのままで、目的地へと。
一瞬で、戦場の真ん中へと降り立った。
「なっ」
クロバラの出現に、レーツェンを含む、全員が驚きをあらわにする。
赤い光の柱から、この場への出現まで。
どんな現象が起こったのか、まるで理解が追いつかない。
ただ、確かなことは。
この場に1人、魔法少女が増えたということ。
「はっ。どこから湧いてきやがった、このクソ隊長」
「ティファニー。随分と、耐えてくれたようだな」
「うっせぇ!」
褒め言葉を正面から喜べるほど、彼女はまだ大人ではない。
ただし、見るからに喜んでいるのは確かである。
「一番の負傷者は、レベッカか」
「た、隊長! 時間と、あと集中さえあれば、わたしが治療できるかも!」
ルーシィが、そう名乗りを上げる。
自分にできることを、正面から全うするために。
「そうか、なら頼む」
仲間がそう言っているのなら、自分は信じるのみ。
背中はアンラベルに任せて、クロバラは敵と対峙する。
仮面によって操られたデルタと、同じく実力者のレーツェン。
単純に考えて、グランドクロス、七星剣に相当する実力者が、2人ということになる。
とはいえ。
今となっては、それほど脅威には感じない。
「こいつらは、わたしが対処しよう」
真っ赤な魔力を滾らせて、右手にはナイフを。
それだけで、クロバラには十分であった。
◆
アンラベルの仲間たちを、そのまま背中を任せて大丈夫。
戦闘に巻き込まれたであろう一般市民たちも、軍関係者や他の魔法少女たちによって保護されている。
つまり、クロバラは何も心配することなく、敵と戦うだけで良い。
デルタとレーツェンが、クロバラ相手に臨戦態勢を取る。
互いに実力者であることは、すでに把握済みであった。
「クロバラさん。どうやって、零領域を脱出したんですか?」
「気になるか?」
地上に戻るにあたって、左目には再び眼帯が装着されている。
真っ赤な獣の瞳は、そこに隠されたまま。
「まぁ、どうでもいい事です。例の手紙を、渡す気になりましたか?」
レーツェンが欲しているのは、手紙に記された情報のみ。
クロバラやアンラベルなど、そのための手段に過ぎないのだから。
しかし、そんな身勝手なエゴに付き合ってられるほど、クロバラも寛大ではない。
「お前のような奴に、プリシラの尊厳を踏み躙らせはしない。わたしたちアンラベルは、この国から逃げさせてもらう」
「……そう、ですか」
クロバラの言葉を受けて、レーツェンは杖を握る力が強くなる。
「せっかく、言葉で解決しようとしているのに。あなたは愚かにも、傷つく道を選ぶんですね」
「傷つく? レーツェン、お前はわたしに勝てると思ってるのか?」
「……」
その言葉。
過ぎたる不遜に、ついに彼女の怒りが、一線を越える。
「――頭が高い」
まるで、時計の針が止まったかのように。
レーツェン以外の動きが、ピタリと停止する。
これこそが、彼女の魔法。
世界そのものを置き去りにする、圧倒的な加速魔法。
「……」
この力を持つがゆえに、レーツェンは常に余裕を崩さない。
彼女の速度に追いつける者は、この世の中に存在しないのだから。
遅すぎる世界の中で、レーツェンは駆ける。
ただ1人、時計の針に抗うように。
拳を握りしめて。
狙いは、クロバラの顔面。
何をされたのか理解する間もなく、彼女はこの一撃で敗北する。
これこそが、レーツェンの戦い。
そのはず、だったのだが。
停止した世界の中で、彼女の他に、動く物が。
赤い魔力に染まったナイフが、眼前に迫っていた。
「なっ」
一体、何が。
そう考える間もなく、レーツェンは反射的に、後方へと回避し。
赤いナイフは、彼女の立っていた場所を斬り裂いた。
魔法が、解かれ。
世界は再び動き出す。
レーツェンは、最初と同じ場所へ戻っている。
赤いナイフは、クロバラの右手に。
この瞬間に何が起こったのか、理解できているのはこの2人のみ。
「まさか。わたしの速度に、反応した?」
レーツェンは戦慄する。
ナイフ一本とはいえ。
自分だけの世界に、異物が混入したのだから。
対するクロバラは、微笑を浮かべたまま。
「悪いな。つい手が滑って、ナイフを落としそうになった」
「……ふざけた、ことを」
常人には認識できない、圧倒的な速さ。
それこそがレーツェンの魔法である。
どんな相手にも、反応を許したことなどなかった。
今日、この瞬間まで。
「信じられないスピードだが、まぁ。ナイフ程度の軽い物を動かせば、わたしにも追いつけるらしい」
「軽々と、言ってくれますね」
認識を、改めなければならない。
クロバラという魔法少女は、ただ強いというだけではない。
この形勢をひっくり返すだけの力を、可能性を有しているのだと。
レーツェンが警戒する中。
クロバラの意識は、デルタの方へと。
「デルタ、わたしの声が聞こえるか?」
「……」
その問いに対し、返答はない。
彼女の心は仮面に囚われたまま、ただ悲しげに動かされるのみ。
「女王の仮面。まさか、こんなデメリットがあったとはな」
自分も一歩間違えれば、このように操られていたのだろうか。
問題はデルタだけではない。ツバキを含めた他のグランドクロスも、この様子だと操ることが出来るのだろう。
魔法少女の自由を、心を、尊厳を無下にする。
クロバラにとって、到底無視できるものではない。
「今、解放してやる」
ナイフを構えて、クロバラは鋭い一閃を。
先読み能力もあり、デルタはその攻撃をギリギリで回避するものの。
魔力の余波だけで、仮面へと傷が入る。
その威力に、レーツェンは焦りを隠せない。
もしも、攻撃が仮面に直撃でもしたら。
「させません!」
再び魔法を起動し、レーツェンは彼女だけの時間へ。
超高速の世界で駆ける。
しかし、それに反応できるのが、クロバラの恐ろしいところ。
肉体は動かずとも、魔力を纏ったナイフがひとりでに。
「くっ」
停止した世界の中で、レーツェンと赤い魔力のナイフが衝突する。
自由に動かせるという点で、レーツェンは誰よりも優れている。
だがしかし、ナイフという一点に力を注ぐことで、クロバラの攻撃はそれに追いつくことが出来る。
速度は互角。
ならば勝敗を決するのは、純粋なる戦闘技能。
200年以上も研ぎ澄まされてきた、レーツェンの凍てつくような力。
かつて最高の兵士と評された、クロバラの燃えるような力。
超高速の世界で、2つの力がぶつかり合い。
どこまでも、どこまでも速く。
その勝負に勝ったのは、レーツェンであった。
「もらった」
高速で動き回るナイフと、攻防を重ねながら。
それと並行して。
レーツェンはクロバラに対する、無数の魔力弾を発射していた。
超高速の世界では、魔力弾は止まったまま。
しかし本来の世界では、それは不可避の攻撃となる。
ナイフでは、魔力弾に対応できない。
クロバラは無防備な状態で、この攻撃を受けることになる。
(勝った)
そう確信すると同時に、レーツェンは魔法を解除し。
世界は再び、本来の速度へと。
無数の魔力弾が、クロバラへと降り注ぐ。
「……はぁ、はぁ。流石にこれは、反応できないでしょう?」
クロバラは、ナイフの遠隔操作に全能力を集中させていた。
ならば、この魔力弾は決定打となる。
そのはず、だったのだが。
「――誰に対して、言ってるんだ?」
「なっ」
脳が理解を拒む。
その現実を、あり得ないと否定する。
声がしたのは、真後ろから。
「速度だけじゃ、わたしは殺せない」
まるで、瞬間移動をしたかのように。
赤い花びらを纏ったクロバラが、そこに立っていた。