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第386話 母親

斜陽街一番街、バー。

ここには妄想屋の夜羽が、いつものボックス席にいる。

何かを考えているようにも見えるし、

何も考えていないのかもしれない。

遠くを見ているようなそぶりもする。

深くかぶられた帽子で、その目は見えない。

藤色のコート、同じ色の帽子。

少し見える半端な髪は黒い。

その手は白。

ここから出ない所為かもしれない。


夜羽はここで妄想屋をしている。

妄想屋は夜羽のするところでは、

妄想をテープレコーダーで録音したり、再生したりする職業だ。

古臭いテープレコーダーで、

お客の妄想を録音して、

それを誰かに聞かせている。

誰か、とは、たまたまやってきた人かもしれないし、

斜陽街の誰かかもしれないし、

同じ妄想を持ちたい人かもしれない。


夜羽はおもむろにテープを一つ取り出した。

タイトルには、『母親』と書いてある。

「これは、多分妄想だよ」

夜羽は説明する。

「多分、妄想。本当かもしれないけどね」

夜羽は口の端で笑った。

テープを古臭いレコーダーにセットして、再生させる。

テープはくるくると回った。


「卵を探しています」

テープレコーダーから声がする。

女性の声だ。

「何の卵ですか?」

夜羽の声がする。

「私の産んだ卵です」

女性は答える。

「あなたは卵を産んだのですか?」

夜羽が聞き返す。

「はい、私は卵を産みました…とても大事にしていたのに」

「のに?」

「卵は隠されてしまいました。地中深くに」

「それを探しているのですか?」

「はい、私は卵を守らないといけません」

女性は答える。

「どんな卵ですか?」

「強い卵です」

「強い?」

「でも、私が守らないと砕けてしまいます」

「早く見つけないといけないですね」

「はい、早く見つけないと斬られてしまいます」

「斬られる?」

「そんな気がするのです」

女性は答える。

卵ということを抜きにすれば、

わが子を思う母親そのものかもしれない。

「卵があると、海が繋がってしまいます」

「海?」

「歪ませて海をつなげてしまいます」

「いまいち、わからないですね」

「水の多い場所と海をつなげて安定したイメージを得ようとするのです」

「卵が、ですか?」

「卵が、です」

「卵からは何がかえりますか?」

「いとおしいわが子です」

女性は答える。

「でも、その顔は見ることが出来ない気がするのです」

女性は悲しそうにそう結んだ。


夜羽はテープを止めた。

母親の声も止まった。

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