此方には何もないか。
ここには全てがある。
憧れも夢も、幻も。
此方には全てがある。
斜陽街一番街、バー。
夜羽はいつものように妄想屋をしていた。
先ほどお客が来ていった。
夜羽はテープレコーダーから妄想のテープを取り出し、
マジックで「此方」と書く。
此方には全てがある。
彼方を目指す必要はなく、
此方に全てがある。
そんな妄想だった。
バーにはいろんな人がやってくる。
人でないものもやってくる。
生体系、電脳系、電網系、それとも違う夢幻のようなもの。
みんな斜陽街で繋がっている。
ここに全てがあるような気もするし、
ここからずっと遠くに何かがあるような気もする。
妄想なのだろうか。
お客の残していった妄想のような気もするし、
夜羽が感じる妄想のような気もする。
それは斜陽街の妄想なのかもしれない。
斜陽街からどこかへと、繋がる妄想なのかもしれない。
カランコロン。
ドアベルが鳴り、お客が入ってくる。
お客は生体系で、マスターにビールを注文した。
いつものバーの、いつもの風景だ。
これからもそうなのだろうし、
もしかしたら変わるのかもしれない。
夜羽にもそれはわからないし、
きっと誰にもわからない。
それでも、夜羽はこの斜陽街の居心地がよくて、
このままでもいいなと思う。
カランコロン。
また、ドアベルがなる。
「いやー、一仕事終わった」
空飛ぶ魚のシキが入ってくる。
続けてヤジマとキタザワが入ってくる。
「ギムレット」
「あの、ファジーネーブルを」
「水」
ヤジマが、キタザワが、シキが注文する。
「夜羽」
ヤジマが夜羽のほうを向く。
「卵は八卦池に入れたよ。電脳の眠りについてるはずだ」
「それはよかった」
夜羽はうなずく。
ヤジマの前にギムレットが置かれる。
「シキは何してたんだい?」
「本を作って、廃ビルの屋上から送ったのさ」
「どこ行っただろうね」
「思い出のどこかに行ったのさ」
キタザワの前にファジーネーブル、
シキの前に水が置かれる。
「それじゃ、一仕事終えたことに乾杯」
「かんぱーい」
グラスがチンとなる。
此方には全てがあるように。
ここに満足すればそれまでかもしれない。
でも、ここが始まりなのだ。
ここに始まりここに終わる。
ならばここが全てなのかもしれない。
カランコロン。
ドアベルがなる。
全てはここから。
また斜陽街で逢いましょう。