これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。
深い森の中。
そのお店はあるという。
森に足を踏み入れると、
そこは常闇の世界。
木々がさわさわなり、
何かの気配がある。
たまに、月明かりが差し込んできては、
かすかに森の断片を見せていく。
それはパズルのようでもあり、
あるいは、壊れたガラスのような、
少し無機質な、破片のような月明かり。
店を探してしばらく歩くと、
甘い香りが鼻に届くのがわかる。
わかる人にはわかる香り。
これは、コーヒー豆を焙煎している香りだと。
無機質な森が、急に、
あたたかな命を吹き込まれたように見える。
甘い誘いの香りは奥から。
目指して進むと、開けた場所に出る。
そこには、
白い漆喰の壁に、赤い屋根。
窓からは明かりと、コーヒーの香りがもれている。
黒い扉には、「狼珈琲店営業中」と、かかっている。
扉を開けて中に入る。
焙煎のにおいは確かにここからだと思わせる。
ボックス席が少し、
カウンター席が少し。
いわゆるカフェとちょっと近い。
甘いコーヒー独特の香りと、
生のコーヒー豆の袋がいくつか、
そして、焙煎されたコーヒー豆が、
きらきらと宝石のように、輝いて瓶にしまってある。
瓶は種類やブレンドによって、
様々あるらしく、
その数無数。
「いらっしゃい」
奥から青年が顔を出す。
黒い長い髪に黒い服。
少し目つきはよくない。
黒い狼の耳をつけているのは、趣味なのだろうか。
「ここは狼珈琲屋。コーヒーだったら何でもって店だよ」
青年は笑う。
剣呑な目つきが、笑顔でちょっと隠れる。
「なんかいれるかい?」
言うは早く、青年はコーヒー器具の準備をする。
「たいていのところは網羅してあるんだ。どこに飛びたい?」
青年はそんなことを言う。
「コーヒーとは、一種のトリップさ」
青年は鋭い目つきに、笑みを浮かべる。
「麻薬じゃないけど、飲みすぎは注意だな」
狼のような青年の営業する、
コーヒー屋が森の中にある。
心の小旅行をするときには、ぜひ。