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第455話 獣

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

どこかの扉の向こうの世界の物語。


森の中の狼珈琲屋で、

狼耳をつけた青年が、コーヒーを入れる。

コーヒーは青年に言わせると、トリップだという。

麻薬とは違うのだろうけれど、

少しだけ危険な香りがしないわけでもない。

危険なのは香りだけ。

店内は、見たとおりのまま、

整っていて、暖かな感じがする。

あくまで、危険なのは香りだけ。


「おまたせ」

青年が、コーヒーカップを差し出す。

中には、濃い琥珀色の液体。

「内緒の地区のコーヒーだよ。めったに出さないんだ」

思わず何が内緒なのか聞き返そうとするが、

「まぁ、飲んでみな」

と、青年は答える。

内緒は内緒らしい。


相変わらずの少し危険な香り。

口に運ぶと、そのにおいが強くなる。

舌を転がるあたたかな苦味。

コーヒーがのどを滑り落ちるときに、

心もすとんと落ちていく感覚を持つ。

琥珀色のイメージに、

落下をしていく感覚。


獣が鳴いていると感じた。

いや、鳴いているのとは違う。

歌っているのだ。

月に狂った狼然り、

終わりの獣然り、

みんな歌っているのだ。


「…って、歌う獣がいるらしい」

不意に、青年の声が届く。

狼耳の青年は、鋭い目を細めて、

「トリップしてたね」

と、言ってのけた。

「この内緒の地区、歌う獣の噂があるんだ」

歌う獣、そんなものを感じたような気がするし、

あるいはトリップなのかもしれないし、

あるいは夢なのかもしれない。


「歌う獣は人のことなのかもしれないと言う人もいる」

狼耳の青年は、話し出す。

「夢を抉られた人が、獣にもなれずに歌うのだとか」

夢を抉られるとは何なのだろうか。

青年は知っているのだろうか。

青年は細かいことは言わない。

そういう性格なのかもしれない。

青年は、笑う。

笑顔の奥に獣が潜むような気がする。


狼耳の青年は、いったん器具を片付けるようだ。

鼻歌を歌いながら、青年は奥へと引っ込んだ。


あとには、少しだけ、

トリップの残り香が危険に漂っていた。

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