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第478話 神技

斜陽街一番街。

ひっそりとバーがある。

ここのマスターは神技を持っているという。

そんなことを聞いてやってきたお客が一人。

誰というわけでもない。

ただの、お客だ。


「いらっしゃいませ」

マスターが出迎える。

ジャズの有線の鳴る店内。

静かで、趣味がよく、片付いている。

お客はきょろきょろとあたりを見る。

ボックス席の奥に、一人お客がいる以外は、

ちょっとこぎれいなバーだと思う程度だ。


「目が見えてないね」

ボックス席のお客は言う。

「妄想屋の夜羽って言うんだ。覚えておいて」

ボックス席の夜羽はそう挨拶する。

見えていないとは何だと、お客は尋ねる。

「そうだね、その目ではマスターの神技は見えないよ」

お客は気分を害する。

荒々しく、カウンター席に座る。

当然、カウンター席に塵なんて落ちていない。

お客の怒りも受け止める。

すべて受け止めてなお、ゆったり包み込む。

何でもいいからと、お客は乱暴な注文をする。

夜羽に目が見えていないと言われ、

ならばどんな神技を持っているのか。

見えないとは一体どういうことなのか。

お客は見てみたいと思った。


マスターは静かに、

お客好みの酒を差し出す。

きれいなグラス、

磨かれた器具、

落ち着いた雰囲気、

そして、うまい酒。

極上の酒だとお客は思った。

これが神技?

うまい酒だけれども、と、お客は思う。


ジャズが鳴っている。

お客は錯覚する。

この一杯のためだけに、

この空間があるかのような錯覚。

最高の一杯のために、

すべてが用意されているような錯覚。


「錯覚じゃないよ」

夜羽か言う。

何が錯覚なのかは言わないが、

多分あの妄想屋というのも、わかっているのだ。

神技。

それは、最高の一杯のために、

惜しみない静かな情熱を傾けること。

お客はいい気分になった。

心の曇りが流れるような。

酒の一杯が、こんなに最高だと感じられることはなかったと、

神技を見たお客は思った。

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