斜陽街一番街のバー。
妄想屋の夜羽は、いつものボックス席に座って、
マスターが気まぐれにチャンネルを回した有線放送を聴いていた。
妄想屋の夜羽は、妄想を録音して聞かせたりする職のものだ。
白い指が年代もののテープレコーダーを操り、
カセットテープを入れ替えて、
いくつもいくつも妄想を録音しては、聞かせてきた。
彼かも彼女かも、よくわからない。
老いているのか若いのかも、よくわからない。
彼の着ているコートと同じように曖昧な色彩で、
同じ色の帽子を目深にかぶっていて、いつも視線はわからない。
有線放送は、かすかに歌を流していた。
普段このバーはジャズの演奏のチャンネルが主だったので、
夜羽としては幾分新鮮な心持ちになる。
この有線放送の機械の向こう、
どこかへ線がつながっていて、
誰かが録音された媒体から、この歌を流していて、
そして、録音されたその媒体の過去には、
誰かが歌を録音していた過去がある。
機械の音楽でも、肉声でも、
誰かが音楽を作っていて、
それが線を伝って今ここに届いている。
音楽に詳しいわけでない夜羽でも、
このチャンネルの歌はすばらしいと感じ、
この歌につながった一本の線を、
またすばらしいものに感じた。
「すばらしい歌ですね」
夜羽はつぶやく。
バーのマスターはちょっとだけ驚いた顔をして、
「空白のチャンネルに合わせてあるのですけれど…聞こえますか」
夜羽は少し首をかしげる。
聞こえる、かすかだけど間違いなく。
「呼んでいるのですかね」
「夜羽さんがそう感じるのであれば、そうなのでしょう」
夜羽はボックス席から荷物を持って立つ。
カセットテープとテープレコーダーの入った鞄だけだ。
「ちょっと出かけてきます」
バーのマスターはうなずく。
「よき出会いになりますよう」
「ありがとう」
夜羽はふらりと、一番街のバーをあとにする。
歌姫が呼んでいる。
夜羽はそんな感覚を持った。
斜陽街の風が吹く。
いつものように、誰に向けてもそうであるように。