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第八章

第491話 有線

斜陽街一番街のバー。

妄想屋の夜羽は、いつものボックス席に座って、

マスターが気まぐれにチャンネルを回した有線放送を聴いていた。

妄想屋の夜羽は、妄想を録音して聞かせたりする職のものだ。

白い指が年代もののテープレコーダーを操り、

カセットテープを入れ替えて、

いくつもいくつも妄想を録音しては、聞かせてきた。

彼かも彼女かも、よくわからない。

老いているのか若いのかも、よくわからない。

彼の着ているコートと同じように曖昧な色彩で、

同じ色の帽子を目深にかぶっていて、いつも視線はわからない。


有線放送は、かすかに歌を流していた。

普段このバーはジャズの演奏のチャンネルが主だったので、

夜羽としては幾分新鮮な心持ちになる。

この有線放送の機械の向こう、

どこかへ線がつながっていて、

誰かが録音された媒体から、この歌を流していて、

そして、録音されたその媒体の過去には、

誰かが歌を録音していた過去がある。

機械の音楽でも、肉声でも、

誰かが音楽を作っていて、

それが線を伝って今ここに届いている。


音楽に詳しいわけでない夜羽でも、

このチャンネルの歌はすばらしいと感じ、

この歌につながった一本の線を、

またすばらしいものに感じた。


「すばらしい歌ですね」

夜羽はつぶやく。

バーのマスターはちょっとだけ驚いた顔をして、

「空白のチャンネルに合わせてあるのですけれど…聞こえますか」

夜羽は少し首をかしげる。

聞こえる、かすかだけど間違いなく。

「呼んでいるのですかね」

「夜羽さんがそう感じるのであれば、そうなのでしょう」


夜羽はボックス席から荷物を持って立つ。

カセットテープとテープレコーダーの入った鞄だけだ。

「ちょっと出かけてきます」

バーのマスターはうなずく。

「よき出会いになりますよう」

「ありがとう」

夜羽はふらりと、一番街のバーをあとにする。


歌姫が呼んでいる。

夜羽はそんな感覚を持った。


斜陽街の風が吹く。

いつものように、誰に向けてもそうであるように。

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