目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第494話 墓標

斜陽街一番街のバー。

妄想屋の夜羽がどこかに出かけていって、

バーのマスターが一人でグラスを磨いている。

客がいない時間帯なのかもしれないし、

そうでなくても、ここが混みあっているのなんて、

あまりないのかもしれない。


来店を告げるベルがなる。

「いらっしゃいませ」

静かにマスターが挨拶をする。

「こんにちは。珍しく、おひとりなのね」

入ってきた品のいい声の主、

花術師のおばあさんは、微笑む。

マスターも少しだけ微笑む。


ボックス席に花術師は腰をかけ、

マスターはミルクベースの甘い飲み物を作る。

マドラーの小さな音だけの、静かな時間。

有線は夜羽が出て行ったそのときのままにしてある。

何も聞こえないチャンネル。

飲み物をボックス席に運び、

マスターはカウンターの中に戻ろうとする。

「マスターさん」

花術師がそっと呼び止める。

「なにか?」

「妄想屋さんさえもどこかに行ってしまうならば」

「ええ」

「このお店はあなたにとって何なのかしら?」

マスターは少しだけ考える。

そして、

「私の墓。…でしょうか」

「お墓?」

「ええ、私が生きてきた証を全て詰め込んだ、墓です」

マスターはそれだけ言うと、また、黙ってしまう。

「じゃあ、ここがお墓ならば、墓標にはお花を飾りましょう」

「花、ですか」

「ここで生き、ここで死ぬのならば、なおさら」

マスターは困ったように微笑む。

苦笑いに近いらしいが、うまく言葉も表情もどうしていいかわからないようだ。


花術師は飲み物を口にする。

ストローから、そっと一口。

「おいしい」

「ありがとうございます」

「生きている味がするのね」

マスターがまた困った顔をすると、

「あなたは生きている。墓の中でも。思い出の中ででも」

「そう、でしょうか」

「墓といいながら、これほど生きることを求めているのは、花と同じくらいだと思うの」

「花と」

「ええ」


花術師は、小さな花を一輪咲かせる。

それは、墓に飾るには小さく、ひかえめで、

それでも生きることを何よりも強く求めている。

墓標に花を。

生きることにも花を。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?