これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。
ウツロは狼珈琲屋の席に腰掛け、
きょろきょろとあたりを見ている。
先ほどから家具屋入道と、店主のオオカミ青年は、
家具を動かしてあちこち力仕事だ。
ウツロの前には、水を飲み干したコップがひとつ。
ウツロは首をかしげて考える。
こんな風に、自分の中は空っぽなんだろうか。
何もかもが訳わかんなくて、
どこに行けばいいか、何をすればいいかがわからない。
コップをじっと見る。
じっと見ていても、水が満ちることはない。
「やぁ」
不意に、声。
「オオカミさんダメじゃない、水あげただけでほっといてさ」
少し高い声の主は、
ウツロの後ろからオオカミに向けて何か言っている。
「悪い、ウサギ、家具をちょっといじってたんだ」
オオカミが家具を移動し終えたらしく、カウンターに戻ってくる。
家具屋入道ものっしのっしとやってくる。
ウツロはようやく、ウサギと呼ばれた後ろの声の主を見た。
短い金髪に、赤いチョッキ。
頭にはウサギ耳をつけた青年だ。
「このお客さんは、どんなお客さん?」
ウサギが訊ねる。
「どうも、ウツロって言うらしくってな」
「ウツロさんなんだ」
ウツロはうなずく。
「それで、珈琲のトリップは危険と判断して、ウサギを待ってた次第だ」
「ふむ」
ウサギ青年はうなずくと、
「それじゃ、紺碧の空のお茶でもどうかな。今の持ち合わせだけど」
ウツロは訳がわからないなりにうなずく。
ウツロの中に何かが満ちるならば、
紺碧の空はいいような気がした。
オオカミが器具を準備する。
ウサギは茶の葉を準備する。
「紺碧の空の下、何もかもが自由だよ」
ウサギが茶の葉を開きながら呪文か何かのように。
「全てはあるべきところに落ちていく。僕らは空の底にいる深空魚かもしれない」
空の下の自由。
ウツロはそれを思い出そうとしたけれど、
ウツロの中にはまだ何もない。