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第530話 遠来

これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。

どこかの扉の向こうの世界の物語。


狼珈琲店のカウンターの中。

ウサギ青年はお茶の準備をしている。

オオカミ青年がお湯を沸かしている。

「僕らはいつだって浮き沈みする儚いもの」

ウサギ青年は言葉を呪文のように。

「紺碧の空の下の自由がそうであるように」

お湯が適温になったことを、オオカミ青年はうなずいて示す。

ウサギはうなずいて答える。

ウサギは楽しそうに、無駄の一切ない手際でお湯を操ってお茶をいれる。


ウツロの中には何もない、

それはウツロがそう感じていたのだから、そうかもしれない。

けれど、今、ウツロが感じることがある。

これは、魔法のようだと。

魔法なんて言葉は、どこから来たのだろう。

ウツロの外側から言葉はいつでもやってくる。


ウサギがカップにお茶を注ぐ。

ウツロの分、入道の分、オオカミの分、ウサギの分、もうひとつ。

注ぎ終わって一滴の残りもないことを確認したそのとき、

ウサギは顔を上げて、

「いらっしゃい」

と、笑顔で迎えた。


やってきたのは少女で、

当然、面食らった顔をしている。

「今おいしいお茶が入ったところです。どうぞ、お嬢さん」

ウサギはカウンター席に茶を運び、

オオカミは焼き菓子の盛り合わせを準備する。

「遠いところからようこそ、お嬢さん」

ウサギは笑顔で。

少女は店の中を見回す。

「迎えられた時はどうしようかと思ったわ」

少女の言葉に、オオカミがウサギを小突く。

「あたしは、キュウ。そこの少年を探しに来たの」

「では、連れて帰って終わりですか?」

「いいえ、おいしいお茶に出迎えられたのですもの」

キュウは華やかに笑う。

「このお茶を飲まずに帰るなんて、アホのすることだわ」


儚いものだとしても、

儚いものこそ、一瞬の輝きを知っている。

一杯のお茶が、きらきらとした魔法をまとっていることも。

そのお茶を楽しむ友人がいることも。

その時間が、魔法をかけられたように楽しいものであることも。

儚いから輝くものもある。

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