歌姫の歌が聞こえる。
夜羽は歩く。歌の聞こえるほうに向かって。
それは夢の中で歩くかのように、
疲れも知らず、脈絡もなく、ただ、どこかへ向かって。
妄想かもしれない歌だけが頼りなんて、
なんてあやふやで曖昧なものだろうか。
それでも、夜羽は妄想屋だから。
何でもあるさ、と、いつものように、
口元をちょっと笑みにして歩いているのだろう。
夜羽は何かの駅にやってきた。
それなりに混雑している。
人が降り、人が乗る。
列車はゴトゴト走って、また、違うところに列車がやってきて、
繰り返される営み。
退屈とされたりする日常。
この駅の中に、
誰が砂糖の匂いと希望の匂いを置いていったのだろうか。
だから人は日々を過ごせる。
夢中になって走り回って、生きている中で、
どこかに穏やかなサトウキビ畑の匂いを感じることが出来る。
人がせわしく走る駅の中、夜羽は立ち止まる。
浮いているのに誰も気がつかない。
夜羽だけ切り抜かれたように。
歌が聞こえるのは夜羽だけなのだろうか。
みんな、この歌が聞こえないのだろうか。
一人くらいは聞こえるのだろうか。
夢中で探している夜羽と、
夢中で生きている人々。
夢は同じではない。果てしなく遠い。
「夢に帰れば会えるさ」
誰かが、すれ違いざまに言った、気がした。
誰だろう。
人が多すぎてわかったものじゃない。
「夢に帰った国に、歌姫はいるよ」
また、別のほうから。
それは、早足の人波がささやいたようでもあり、
また、夢のいざないのようにも思われた。
「夢に帰った国」
夜羽はつぶやく。
人々は夜羽に気がつくこともなく、
あるべき場所に向かって早足で駅を通り過ぎていく。
夜羽は軽く深呼吸。
どこに国があるのかわからない。
それを聞くのはきっと野暮と言うものだ。
夢に帰った国へ入るのには、
夢中であればいいのだ。
歌姫の歌が聞こえる。
過ぎ去る人々には、きっと聞こえていない。
それが少しだけ、夜羽はさびしかった。