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第531話 夢中

歌姫の歌が聞こえる。

夜羽は歩く。歌の聞こえるほうに向かって。

それは夢の中で歩くかのように、

疲れも知らず、脈絡もなく、ただ、どこかへ向かって。

妄想かもしれない歌だけが頼りなんて、

なんてあやふやで曖昧なものだろうか。

それでも、夜羽は妄想屋だから。

何でもあるさ、と、いつものように、

口元をちょっと笑みにして歩いているのだろう。


夜羽は何かの駅にやってきた。

それなりに混雑している。

人が降り、人が乗る。

列車はゴトゴト走って、また、違うところに列車がやってきて、

繰り返される営み。

退屈とされたりする日常。

この駅の中に、

誰が砂糖の匂いと希望の匂いを置いていったのだろうか。

だから人は日々を過ごせる。

夢中になって走り回って、生きている中で、

どこかに穏やかなサトウキビ畑の匂いを感じることが出来る。


人がせわしく走る駅の中、夜羽は立ち止まる。

浮いているのに誰も気がつかない。

夜羽だけ切り抜かれたように。

歌が聞こえるのは夜羽だけなのだろうか。

みんな、この歌が聞こえないのだろうか。

一人くらいは聞こえるのだろうか。


夢中で探している夜羽と、

夢中で生きている人々。

夢は同じではない。果てしなく遠い。


「夢に帰れば会えるさ」

誰かが、すれ違いざまに言った、気がした。

誰だろう。

人が多すぎてわかったものじゃない。

「夢に帰った国に、歌姫はいるよ」

また、別のほうから。

それは、早足の人波がささやいたようでもあり、

また、夢のいざないのようにも思われた。


「夢に帰った国」

夜羽はつぶやく。

人々は夜羽に気がつくこともなく、

あるべき場所に向かって早足で駅を通り過ぎていく。

夜羽は軽く深呼吸。

どこに国があるのかわからない。

それを聞くのはきっと野暮と言うものだ。

夢に帰った国へ入るのには、

夢中であればいいのだ。


歌姫の歌が聞こえる。

過ぎ去る人々には、きっと聞こえていない。

それが少しだけ、夜羽はさびしかった。

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